AFTER READING / AUTHOR’S NOTE

21年後、この作品を読み返して

『風に向かって飛び立つ白鳥のように』|2005 → 2026

31歳の自分が書いた物語を、
52歳の自分が読み返しています。

『風に向かって飛び立つ白鳥のように』を書き終えたのは、2005年の秋でした。

400字詰め原稿用紙に換算して470枚。約三年をかけて書いた長編小説です。

それから21年が経ちました。

2026年、昔の文章や資料を整理する中で、私はこの作品を久しぶりに最初から最後まで読み返しました。屋根裏からは、執筆当時に集めた本や新聞、時刻表、現地で撮った写真などもまとまって出てきました。

読みながら何度も感じたのは、「若い頃の自分は、こんなことを考えていたのか」という驚きでした。

もちろん、文章には若さがあります。今なら別の言葉を選ぶところもあります。時代を感じる表現もあります。

けれど、それ以上に、その後の人生で私が何度も考えることになる問いが、すでにこの物語の中に残っていました。

過去の自分に、現在の答えを教えるのではなく。
過去の自分が残した問いを、現在の自分が読み直してみる。

このページは、本編を読み終えた方に向けた作者ノートです。物語の展開や終盤の内容に触れています。また、本作品には作者自身の経験から着想を得た部分がありますが、人物、団体、設定、出来事等には創作および再構成を含んでおり、実体験をそのまま記録したノンフィクションではありません。
WHY NOW

なぜ今、全文を公開するのか

この作品を、2026年の自分の文章へ書き直そうとは思いませんでした。

文章として整えた方がよい場所もあるでしょう。今なら削る場面も、違う表現を選ぶ場面もあると思います。

それでも本文そのものには、できるだけ手を入れずに残すことにしました。

そこに残っているのは、2005年の私が見ていた世界だからです。

その時代に何を感じ、何を大切だと思い、何に怒り、何を信じようとしていたのか。

後からきれいに説明し直してしまえば、31歳だった自分の輪郭まで変えてしまいます。

完成度の高い過去を見せたいのではなく、その後の自分へつながっていく一つの時間を、できるだけそのまま残しておきたいと思いました。

RESEARCH / MAKING OF

調べた世界と、すでに知っていた風景

2026年、屋根裏部屋を整理していたとき、この小説を書くために集めた資料がまとまって出てきました。

特急白鳥号について調べた本。

最終運行日の新聞記事。

列車の時刻表。

洗濯機の開発と発展の歴史。

田中角栄が大蔵大臣になった頃のエピソードを調べた資料。

独立行政法人化へ向かう当時の社会の動き。

大阪大学微生物病研究所で起きた事件についての資料。

資料を読むだけではなく、実際に近江中庄駅へ行き、案内看板を撮影した記録も残っていました。

物語冒頭につながる研究所の出来事については、当時実際にそこにいた友人からも話を聞いています。

  • 鉄道の歴史と、特急白鳥号が走った時間
  • 列車の運行時刻と、登場人物が実際に移動できる時間
  • 洗濯機産業と企業の発展史
  • 政治家や企業経営者に関する実際のエピソード
  • 大学・研究機関を取り巻く当時の制度と社会情勢
  • 現地を訪れて確認した風景や案内表示
  • その場にいた人から聞いた一次的な記憶

ただし、この作品に登場するすべての風景を、資料から組み立てたわけではありません。

物語の舞台の一つである新潟は、私自身が大学から大学院までの六年間を過ごした場所です。

実際に目にしていた風景。

実際に歩いた道。

実際に訪れた場所。

雪の季節の空気や、街の距離感や、列車の窓から見えていた景色。

それらは取材して覚えたものではなく、すでに自分の中に残っていた風景でした。

そして特急白鳥号も、私にとって資料の中だけの列車ではありません。

京都へ帰省するとき。

京都から新潟へ戻るとき。

学生時代、何度も何度も乗った思い出の列車でした。

調べて書いた部分と、
自分の記憶から書いた部分。

この小説には、その二つが重なっています。

特急白鳥号が最後に走った日。

私は現在の妻と一緒に、大阪駅までその姿を見に行きました。

ホームに集まった人たち。

最後の列車を待つ空気。

到着する白鳥号。

見送る人たちの声。

そして、列車がホームを離れていくときの情景。

小説の中に描いた白鳥号最終日の場面には、資料から得た事実だけではなく、その日に自分の目で見たものが重なっています。

21年後に読み返すと、そこには「小説のために作った風景」というより、当時の自分が実際に見ていた時間がかなりそのまま残っていました。

本作品はフィクションであり、人物・団体・設定・出来事等には創作および再構成を含みます。 一方で、舞台となる土地の風景や列車、時代背景などには、 作者自身の実体験や当時の調査をもとにした描写が含まれています。

当時の私は、それを「取材」と呼んでいたかどうかも覚えていません。

ただ、物語のどこかを突かれたときに、簡単にほつれが出てしまうものにはしたくなかった。

登場人物がその時刻の列車に本当に乗れるのか。

その時代に、その制度や社会状況は本当に存在したのか。

その製品や技術は、いつ頃どのように発展したのか。

舞台になった場所は、実際にはどんな風景なのか。

一つずつ調べ、現地へ行き、人に聞き、自分自身の記憶も確かめながら、時間をつなぎ合わせ、物語全体が成立する構造を作ろうとしていました。

今振り返ると、この頃から私のやっていることは、あまり変わっていないようにも思います。

散らばった事実を観察する。
変数を探す。
制約条件を知る。
関係性を考える。
時間軸を加える。

そして、全体が破綻せず成立する条件を探す。

小説を書いた経験が、後の経営方法を作った。

そう単純に言い切るつもりはありません。

むしろ、小説を書いていた31歳の時点ですでに、私は今と似た方法で世界を見ようとしていた。

屋根裏から出てきた資料の山は、そのことを21年後の自分に教えてくれました。

もう一つ、今になって見える時間があります。

当時、週末になるとノートパソコンを持ってスターバックスへ行き、そこでこの小説を書いていました。

その頃、妻はまだ幼かった子どもたちの子育ての真っ最中でした。

31歳の私は、三年かけて470枚の長編を書いた。

それは事実です。

けれど52歳になって振り返れば、その470枚には、私が机に向かっていた時間だけではなく、その時間を家庭側で引き受けてくれていた人の時間も含まれていたのだと思います。

そして、白鳥号の最終日を一緒に見に行ったその人が、当時も今も私の隣にいます。

作品の本文には書かれていない、作品の外側にあった時間です。

WHAT I WAS WRITING

31歳の私は、何を書こうとしていたのか

この物語は、一人の青年が、信じる対象を失うところから始まります。

そして、新たに尊敬できる経営者と出会う。その背中を追い、近くで働き、多くのことを学ぶ。

ところが、近くで見続けるからこそ、少しずつ違和感も見えてくる。

尊敬していた人の中に、自分が受け入れられない部分を見つけたとき、それまで受け取ってきたものまで否定すべきなのか。

学んだことは、本物だったのか。

裏切られたと感じたとき、それまでの感謝は消えるのか。

今読み返すと、私が書こうとしていたのは「正しい人」と「間違った人」を分ける物語ではなかったように思います。

人は一つの面だけでは説明できない。

尊敬と失望。感謝と怒り。学びと違和感。

相反する感情を同時に抱えたまま、それでも自分はどう生きるのか。

その問いを書こうとしていたのではないか。

21年後の今は、そう読んでいます。

GRATITUDE & BETRAYAL

感謝と裏切りは、同時に存在する

読み返していて、特に自分らしいと思ったところがあります。

店町は宗像に強い怒りを抱きます。恨みも、復讐心も持っています。

それでも、その感情だけでは動きません。

宗像から学んだこと。成長させてもらったこと。かけてもらった言葉。一緒に過ごした時間。

それらへの感謝が残っているからです。

感謝しているから、裏切られても怒らない。

そういう単純な話ではありません。

怒っている。傷ついている。許せない部分もある。
それでも、感謝している部分まで嘘にはしない。

31歳の自分は、人間関係を白か黒かに塗り分けることに、どこか抵抗があったのかもしれません。

そして52歳になった今も、この感覚はそれほど変わっていません。

過去の出来事に一つの評価だけを貼り付けると、そこから受け取ったものまで失ってしまうことがあります。

良かったことは良かったこととして残す。間違っていたことは間違っていたこととして見る。

二つを同時に持つ。

それは曖昧さではなく、現実をできるだけそのまま見るための姿勢なのだと、今の私は考えています。

KEEP THE RECORD

「記録を遠くへ」という選択

物語の終盤で、店町は手元に残した記録をすぐに使いません。

朝礼記録と録音データを、遠く新潟の銀行の貸金庫へ預けます。

十年分の管理料を口座に入れ、鍵を掛ける。

それは、証拠を捨てることでも、その場で相手を追い詰めることでもありませんでした。

今読み返すと、この場面には当時の私の考え方がよく出ています。

怒りの勢いで撃たない。

けれど、何もなかったことにもしない。

記録を残し、時間を置き、将来の自分に選択肢を残す。

その後の私は、仕事でも経営でも、「今すぐ使わなくても、将来の選択肢は残しておく」という考え方を大切にするようになりました。

それを理論として知っていたわけではありません。

けれど31歳の私は、すでに物語の中でそのような行動を選ばせていました。

BEFORE THE SWAN

『半減期』『磨りガラスの視界』、そして『白鳥』へ

今回、昔の文章を整理する中で、『白鳥』より前にも、私は長い文章を書こうとしていたことをあらためて知りました。

一つは、『半減期』。

大学院時代の研究室やミジンコ研究を素材にしながら、生命の「適応」や「可塑性」について考えていた未完稿です。

もう一つは、『磨りガラスの視界』。

1995年のスキー事故と、その後の身体を題材に、27歳頃の自分が書こうとしていた長編です。

どちらも完成しませんでした。

そして、『磨りガラスの視界』の終盤には、こんな一文が残っていました。

完全復活には7年かかる。肉体的にではなく、精神的に。

2026年、この言葉を古い原稿の中から見つけました。

事故から七年。

当時の私は、自分なりにあの出来事を理解し、一度そこに区切りをつけようとしていたのだと思います。

もちろん、27歳の自分が現在の人生哲学や経営哲学を持っていたわけではありません。

現在の言葉を、昔の自分へ遡って当てはめるつもりもありません。

ただ、『半減期』では生命の適応や可塑性を考え、『磨りガラスの視界』では自分自身の身体を観察し、その意味を理解しようとしていた。

そして2005年。

『風に向かって飛び立つ白鳥のように』では、自分の事故も身体の不調も書かず、仕事、人間、組織、家族、生き方を物語にしました。

さらに21年が経った2026年。

私はもう一度、「脳脊髄液減少症と生きる」というSTORYで、自分の身体について書いています。

2001–2002年頃 『半減期』

生命の「適応」と「可塑性」を考えていた

↓

2002年 『磨りガラスの視界』

事故と、その後の身体を書こうとしていた

↓

2005年 『風に向かって飛び立つ白鳥のように』

身体を書かず、人と仕事を物語にした

↓

2026年 「脳脊髄液減少症と生きる」

身体と人生を、実話としてもう一度書いている

こうして時間を並べると、一本の思想を最初から書き続けていたようにも見えます。

でも、おそらくそうではありません。

それぞれの時代に、それぞれの場所で、その時に自分が書けるものを書いていただけです。

ただ、25年以上が経ってから振り返ると、対象が変わっても、似た問いを何度も見ていたことに気づきます。

自分の目の前で起きていることを観察し、その意味を理解しようとすること。

昔の文章を読み返す面白さは、若い頃の自分の中に現在の答えを見つけることではなく、こうした思いがけない連続性に気づくことなのかもしれません。

人は、その時に書けるものを書く。

そして、書ききれなかったものも、時間の中には残る。

THE SWAN / 2005 → 2025

白鳥は、21年後に会社へ戻ってきた

この作品には、何度も白鳥が現れます。

瓢湖を飛び立つ白鳥。

特急白鳥号。

宗像の記憶の中の白鳥。

そして、店町がもう一度見たいと願う白鳥。

作品の中で宗像は、白鳥は風に向かって飛び立つと語ります。

追い風を待つのではなく、向かい風に翼を向けて高度を得る。

31歳の私は、その姿に強く惹かれていたのだと思います。

しかも、その白鳥は、私にとって抽象的なモチーフだけではありませんでした。

六年間暮らした新潟の風景と、何度も乗った特急白鳥号と、その最終日を自分の目で見送った記憶の延長線上にいた白鳥です。

当時の白鳥は、どちらかといえば一人の人間がどう生きるかという問いの近くにいました。

自分は何を信じるのか。

裏切られたあと、どうするのか。

向かい風の中で、それでもどう飛び立つのか。

2005
『風に向かって飛び立つ白鳥のように』を脱稿。 一人の青年が、自分はどう生きるのかを問いながら物語を終えました。
2024年末
パントスの代表取締役に就任して数か月後、 社内のキーマンにこの小説を読んでもらいました。
2025.12.24
社内向けのクリスマスメッセージとして 「パントス湖を飛び立った白鳥たち」を投稿しました。
2026
21年前の小説と当時の資料をあらためて読み返し、 二つの時代の白鳥が自分の中で初めてつながりました。

2025年のクリスマスメッセージでは、最初に一羽が飛びます。

その後ろに、もう一羽が続く。

さらに白鳥が続き、気がつけばV字編隊ができている。

先頭が疲れれば後ろへ下がり、元気な鳥が前へ出る。

一番後ろの鳥がはぐれないように、皆で遠い目的地へ向かう。

私はその後、こうした組織のあり方を「渡り鳥経営」と呼ぶようになりました。

けれど最初から、21年前の小説と現在の経営哲学を結びつけようとしていたわけではありません。

小説を書いた31歳の私が、現在の経営を予想していたわけでもありません。

2025年の私も、昔の小説を経営哲学へ転用しようとして白鳥を書いたわけではありません。

ただ、気がつけば私は、
もう一度白鳥を書いていました。

今度は、一羽ではありませんでした。

2005年には、「自分はどう飛ぶのか」を考えていた。

2025年には、「皆でどう飛ぶのか」を考えていた。

その間にあった20年を、一本のきれいな線で説明するつもりはありません。

それぞれの時代に、別々の場所で考えていたことです。

けれど時間を置いて眺めると、地下でつながっていたように見えるものがある。

昔の文章を読み返す面白さは、過去の自分の答えを確認することよりも、こういう思いがけない連続性を見つけることなのかもしれません。

LAST LINE

「宿は、まだ決めていない。」

物語の最後。

店町は、もう一度白鳥を見るために、車を新潟へ向けて走らせます。

白鳥を見たあと、自分が何をするのかは決めていません。

そして最後の一文は、

宿は、まだ決めていない。

21年前、なぜこの一文で終わらせたのか。

当時の自分の意図を、今の自分がすべて説明できるわけではありません。

ただ、今の私はこの一文を、「まだ先を決め切らなくてもいい」という終わり方として読んでいます。

向かう方向は決めた。

車も走り始めた。

けれど、その先のすべてまで決める必要はない。

未来には、まだ余白がある。

それは、52歳になった今の自分にも、どこかしっくりくる終わり方です。

21 YEARS LATER

31歳の自分に、答え合わせはしない

21年後の自分から見ると、31歳の私は未熟だったと思うところもあります。

逆に、今の自分では簡単には書けないような直線的な感情や、若さゆえの純度も残っています。

だから、この作品を読み返して、「あの頃の自分は正しかった」と言いたいわけでも、「間違っていた」と訂正したいわけでもありません。

ただ、その時代の自分が何を問い、何を大切にしようとしていたのかを、そのまま受け取っておきたいと思っています。

人を信じること。

裏切られたあとも、受け取ったものまで否定しないこと。

怒りの中で、すぐに決着をつけないこと。

記録を残し、時間を置くこと。

変えられないものがある中で、自分はどう生きるのかを考えること。

それらは、この小説を書いたあとに始まった問いではありませんでした。

すでに31歳の自分が、物語の中に置いていました。

そして21年の間に、その問いの一部は、仕事や経営や家族との時間、そして自分の中に残り続けた風景や記憶の中で、別の形へ変わっていきました。

作品を書いた自分と、
作品を読み返す自分の間にある21年。

その時間もまた、
この物語の続きなのだと思います。