脳脊髄液減少症と生きる

――事故から確定診断まで24年、そしてその先へ

※本稿は執筆中です。
記憶と当時の資料を照合しながら、随時加筆・修正しています。
また、本稿は私自身の経験を記したものであり、特定の症状や治療法を一般化するものではありません。


地下鉄サリン事件を、病院のベッドから見ていた

1995年3月20日。

地下鉄サリン事件のニュースを、私は病院のベッドの上で膝を抱えて眺めていました。

頭から出ていたチューブはすでに外れ、手首の抑制も解かれていました。首にはコルセット、頭にはまだ包帯。自由に動けるようになったとはいえ、病院のベッドから離れられる身体ではありません。

全身麻酔の霞がようやく薄れ、その向こうから、激しい痛みが輪郭を取り戻していました。

その五日前。20歳だった私は、黒姫高原スキー場の林間コースで木に激突しました。

右前頭部骨折。頸椎捻挫。硬膜外血腫。緊急の開頭血腫除去手術。

集中治療室で目を覚ましても、自分の身に何が起こったのか、すぐには理解できませんでした。

途切れ途切れの記憶の中には、雪の林道に座り込んでいる自分がいます。周囲に見える、ぼんやりとした部員たち。目に向けられたペンライトの眩しさ。付き添ってくれた先輩と、車を出してくださった宿の主人に、

ぼんやりした意識の中で、「病院までどれくらいかかりますか」

と尋ねたこと。

ストレッチャーの上で実家の電話番号を聞かれ、そこで完全に意識が途切れたこと。

次に鮮明なのは、集中治療室です。目を覚ました私に看護師さんが近づいてきました。

両手はベッドに縛られ、頭からはチューブが出ています。そして、尿道カテーテルも。

私が最初に発した言葉は、

「いつ退院できるんですか?」

三日後に予定されていた北信越大会に間に合うのか。私は本気で、それを確かめようとしていました。

自分が置かれた現実を理解するには、まだあまりにも遠いところにいました。


けれど、事故以前の私は、身体の制約条件というものをほとんど知りませんでした。

→ 15歳の宣誓、そのあと私は勉強をやめた――事故前の私を読む

数か月前まで、私はトライアスロンを考えていた

事故の前年、1994年の夏。全国的な水不足だった年です。

私はマウンテンバイクで、新潟から実家のある京都まで帰省するほど体力を持て余していました。4時間耐久レースには一人で出場。基礎スキー部の練習だけでは物足りず、週末には角田山を自転車で登ることもありました。

事故の数か月前には、同学年の部員たちとのミーティングで、

「トライアスロンに転向したい」

と話したこともあります。

夏に働いていた赤塚厚生年金スポーツセンターで知り合った方が佐渡のトライアスロンで結果を残し、その年に海外で開かれる国際大会の日本代表に選ばれたという話に刺激されていました。当時刊行されていた『トライアスロンジャパン』も定期購読していました。

結局は考え直し、新潟大学基礎スキー部に残ることを選びます。

数か月後、自分の身体の前提条件そのものが変わることなど、もちろん知る由もありませんでした。


「不死身」と言われた二週間後の退院

運び込まれたのは、長野市にあった小林脳神経外科病院でした。

事故現場で救急車を待つより早いだろうと、宿の主人が、付き添いの先輩と私を車に乗せて病院まで運んでくださいました。後になって京都の脳外科の先生から、執刀してくださった先生が脳外科手術で知られた方だったと聞きました。

入院は、わずか二週間。

部員たちからは、「不死身やな」と言われました。

首にコルセットを巻き、母に付き添われ、特急電車で京都へ戻りました。その道のりはひどく長く感じられました。

顔はスキー部員らしく真っ黒に雪焼けしたまま。見た目だけなら、健康そのものだったかもしれません。

京都の病院で握力を測ると、左右とも50kgを優に超えていました。

部分的には、私はまだ強いままでした。

けれど、身体全体の均衡は、事故前とは明らかに違っていました。

衝突の衝撃で頭部に大きな力が加わったためなのか、右の顎関節は詰まり、普通には口を開けられません。カクン、と関節をずらすようにして何とか開けられるようになるまで、半年以上かかりました。

52歳になった今も、大きく口を開くと右の顎関節が鳴ります。

身体に残った、事故の日の小さな痕跡です。


元に戻りたくて、私は走った

退院したのは三月末。京都にいたのは四月半ばまででした。

新学期に合わせ、私は早々に新潟へ戻ります。医師からは、体調を見ながら徐々に運動を始めてもよいと言われていました。

私は走り始め、部活にも復帰しました。

元に戻りたい。

みんなから遅れた分を取り戻したい。

ただ、それだけでした。

今から考えると、「徐々に」という言葉を、20歳の私はずいぶん自分に都合よく受け取っていたようにも思います。

仲間と走りながら、ふいに、

「俺、長生きできひんかもしれんな」

と口にすることもありました。

あれほどの怪我をしたのだから、そんなこともあるのではないか。理由もなく、そんな感覚だけが残っていました。仲間たちは少し困った顔をしていたように思います。

それでも事故からその年の秋までは、後に私を長く苦しめる理解不能な体調不良は、まだ本格的には現れていませんでした。

変化が始まったのは、1995年11月頃。

頭痛。

ふらつき。

背中の激痛。

そして、日によってまるで違う身体。

やがて、天候が崩れる前にひどく悪化することにも気づきました。

まだ雨が降っていないのに、一人暮らしのアパートの床へへばりつくようにして、ただ時間が過ぎるのを待つ。

立ち上がれない。

手にしていた茶碗が、力の抜けた指からこぼれ落ちる。

身体の中で、何が起きているのか分かりません。

事故から一年ほど経った頃、私は書店の気象予報士試験の参考書が並ぶ棚の前に立っていました。

気象予報士になりたかったわけではありません。

天候が崩れる前に、身体には何かが起こる。その理由を知りたかった。

中で何が起きているかは見えない。それでも、答えへ近づくための変数の一つが「気象」であることだけは感じていました。


1997年、まだ病名を知らなかった

事故から二年後の1997年。

大学を卒業する3月、私は新潟大学の広報誌に一つの文章を書いていました。

タイトルは、

「可能性って何だ!?」

そこには、自分の可能性をどこまで広げ、どこまで伸ばせるかを「一つのゲーム」として楽しんできた、と書いていました。

あるときはスポーツで。

またあるときは勉強で。

その文章に添えたのは、事故前にマウンテンバイクの4時間耐久レースを走り終えたときの写真でした。

ところが、その文章を書いていた1997年の身体は、写真の頃とはすでに違っていました。

→ 「可能性って何だ!?」――1997年、新潟大学を卒業するときに書いた文章

そして、そのわずか数か月後。

1997年6月、私はインターネット上の「むち打ち」に関する情報サイトの開設者へ、長いメッセージを送っていました。

その文章も、今も残っています。

事故の経緯、首や背中の痛み、ふらつき、天候との関係、カイロプラクティックへ通っていたこと。そして雨の日に学校を早退し、そのメールを書いていることまで記されていました。

興味深いのは、当時の私が「重大な後遺症はでずにすみました」と書いていることです。

同じ文章の中で、月に一、二日は動けなくなることを書いているにもかかわらず。

22歳の私は、自分を「重大な後遺症のある人」とは認識していなかったのでしょう。事故前の自分へ戻ることを、まだ当然の前提にしていたのかもしれません。

そして、その手紙にはもう一つ、今の私が読み返して驚いた一文がありました。

いずれは医者の立場ではないにしても、自分と同じような症状で悩んでいる人たちに何らかの形で貢献していきたい。

2026年になって突然そう思い始めたのではありませんでした。

病名すら知らなかった22歳の自分が、すでに同じ方向を向いていました。

→ 1997年、22歳の私が「むち打ち」のサイトへ送った手紙


七年で治す

身体の調子が崩れると、心の余裕もなくなりました。当時付き合っていた彼女に八つ当たりすることもあり、一人暮らしの食事もおろそかになりました。

身体は食べ物から作られている。生物学を専攻していた私は、人よりよく知っていたはずです。

知っていることと、自分にできることは違いました。

青白い顔で、毎週のようにカイロプラクティックへ通いました。一回四千円ほど。楽になる日もあれば、かえって悪化する日もある。それでも何かを試さずにはいられませんでした。

藁にもすがる、という言葉は、こういう時に使うのだと思いました。

けれど、死にたいとは思いませんでした。

どこで聞いたのか、「人間の身体の細胞は八年ほどですべて入れ替わる」という話を信じていました。

医学的に正確な話だったかどうかは知りません。それでも20歳の私は、そこから自分なりの期限を作りました。

この怪我を七年で治す。

周囲にも、そう話していました。

1995年から七年。2002年。

そこが、私の中のゴールになりました。


社会人になれる身体ではないと思っていた

大学では研究室を選ぶ頃になると、不規則な体調不良がすでに生活の一部になっていました。

大学院へ進学した理由はいくつかあります。

研究を続けたいという思いもありました。

しかし、もう一つ大きな理由がありました。

当時の私は、自分が普通の社会人生活を送れる身体だと思えなかったのです。

毎朝決まった時間に起き、電車に乗り、会社へ行き、夕方まで働く。

それを毎日繰り返す。

そんな当たり前の生活が、自分にはできないのではないかと思っていました。

それでも1999年4月、私は社会人になりました。

時代は就職氷河期の真っただ中でした。

現在ほどバイオテクノロジーという言葉が一般的ではなく、生物学専攻は必ずしも就職に有利ではありませんでした。

製造業では工学部。

食品や製薬では化学系。

私は比較的工学寄りの研究テーマにも取り組んでいましたが、それでも間口は広くありませんでした。

そんな私が入ったのが、家庭用マッサージチェアメーカーでした。

創業社長という人物に魅力を感じたことが大きな理由でした。

そしてもう一つ。

健康や医療に近い製品を扱っている会社だったことも、身体に問題を抱えていた私には響くものがありました。

ところが皮肉なことに、私の身体をマッサージチェアが治してくれることはありませんでした。

私の場合、座ることで身体が悪化することすらありました。

健康機器だからといって、壊れた身体を健康な状態へ戻せるわけではない。

当時の私は、マッサージチェアとは「不健康な人を健康にするもの」というより、「健康な人がより快適に、より健康に過ごすためのもの」なのではないかと考えるようになりました。

私は鍼にも通いました。

整体、整骨院にも通いました。

会社の共同研究先の先生に、患者として治療していただいたこともあります。

その後も含めれば、整骨院や鍼灸院で施術を受けた回数は、延べ千回を超えていると思います。

貼った湿布も、一万枚を超えているでしょう。

おそらく、これはこれからも続きます。


2001年、26歳の私が残していた二つの文章

社会人になった2001年頃、私は仕事とは別に、いくつもの文章を書いていました。

その中に、今読み返すと対照的に見える二つの原稿があります。

一つは、

「スタート合図のないマラソン」

という短い文章です。

そこで26歳の私は、「動くこと」と「立ち止まること」について考えていました。

静とは何か、それはよく考えてから行動すること。

そして、周囲が動いているからという理由だけで、自分まで動く必要はないのではないか。

まず方向を考え、それから動く。

そんなことを書いていました。

現在の私が使っている「変数」や「制約条件」という言葉は、まだありません。

けれど、動く前に条件と方向を見るという考え方の原型は、この頃にはすでにあったようです。

→ スタート合図のないマラソン――26歳の私が考えていた「動くこと、立ち止まること」

そして、もう一つ。

『僕の身体は気圧計』

筆名「麦野万帝」で書いていた、未完の物語です。

こちらでは、事故から六年以上が過ぎても続いていた、自分にしか分からない身体の不調そのものを書こうとしていました。

外から見れば普通に歩き、普通に会話もできる。

けれど、天候が崩れる前には首がうずき、身体が重くなる。

病名は分からない。

それでも、自分の身体と気圧が連動していることだけは分かっていました。

物語の中で私は、こんな言葉を書いています。

外から見れば僕の身体はいたって健康。でも、僕の身体は気圧の変化と連動している。

さらに、この草稿には、1995年7月2日付の過去の文章として、

この怪我の重大さに気づくのに、一生かかるのかもしれない

という言葉も収められていました。

そして2001年頃の私は、その文章を読み返す形で、

この文章を書いたときはまだよかった。

と書いていました。

今の私は、その2001年の自分も、まだ本当の病名を知らなかったことを知っています。

確定診断を受けるのは、それからさらに18年後でした。

→ 僕の身体は気圧計――2001年、病名を知らない私が書きかけていた物語

同じ26歳頃に、一方では「立ち止まって考えること」を書き、もう一方では「自分の身体に何が起きているのか」を物語にしようとしていた。

当時の私は、この二つを一つの思想として考えていたわけではありません。

ただ、25年以上経った今から見ると、どちらにも共通するものがあります。

見えないものを、見えるものから理解しようとすること。

身体でも、仕事でも、まず観察する。

すぐに答えが見つからなければ、変数を探す。

そして、どちらへ動くべきかを考える。

現在の私の考え方になる前の、小さな種が、この頃の文章には残っていたようです。


痛みを抱えた社長秘書

新卒でありながら、私は創業社長の秘書を務めることになりました。

数年間という短い経験でしたが、そこで流れた時間の密度は、年数だけでは測れません。重圧もまた、大きなものでした。

社外の人は、私を普通の新卒社員として見てくれません。社長の横にいる以上、「よほど優秀だから、この席にいるのだろう」という前提で見られます。

会社の看板を背負っている。失敗できない。

その緊張感が、不思議なことに身体の激痛を一時的に中和していたようにも思います。痛みが消えていたわけではありません。痛みを感じる余白の方が消えていたのかもしれません。

それで、どうにか仕事が成立していました。

その時代に経験し、悩み、考えたことについて、ここでは詳しく書きません。私はそれを材料に、約三年をかけて一つの小説を書きました。

『風に向かって飛び立つ白鳥のように』

2005年秋に脱稿した作品です。

不思議なことに、その小説の中で私は、自分の事故についても、後遺症についても一切書きませんでした。

書かなかったのではなく、書く必要がなかったのだと思います。

その作品で伝えたかった本筋は、別のところにありました。


「お世話になりました」の中で始まった転職生活

次に入った会社がCCSでした。

入社して一週間ほど経った頃、社内で希望退職者を募る発表がありました。

そしてその十日ほど後。

今度は当時の社長が交通事故に遭い、長期離脱することになりました。

退職する社員が各部署を回っていました。

「お世話になりました」

と挨拶している。

私は新しく入ったばかりなので、

「お世話になることになりました」

と挨拶したい。

どうにも噛み合いません。

そんな社会人生活の第二幕でした。

生物学を学んできた私が最初に配属されたのは経営企画室でした。

前職で社長秘書と株式公開準備に関わっていたので、まずはそこを入口にするしかなかったのです。

前職で身に染み込んでいた言葉がありました。

「目の前の仕事こそ天命と思え」

私は与えられた場所で仕事をしました。

経営企画室。

総務部総務課。

事業開発室。

新規営業部。

そして光技術研究所。

振り返れば、一つの会社の中でずいぶん多くの経験をさせていただきました。


研究者だったから、営業になった

会社ではLEDを植物工場用照明へ展開しようという動きがありました。

しかし当時の私は、それを短期的に収益化するにはまだ少し飛躍が大きいと感じていました。

そこで私は、研究支援機器としてのLED応用に力を入れました。

興味を持ってくださりそうな全国の大学や研究機関の先生へメールを送りました。そして実際に多くの研究室を訪問しました。

全国の理科学機器商社へ商品説明にも回りました。

私はもともと研究者側の人間でした。

だから先生方と話すことができました。

研究現場の要望も理解できました。

そして困ったことに、その細かなニュアンスを私以外の社内外の人へ完全に引き継ぐことが難しかった。

結局、

製品を企画して作った私自身が、今度は売りに回ることになりました。

私は営業に向いていると思ったことなどありませんでした。

必要だから説明する。

必要だから売りに行く。

そうしているうちに、人前で話すことにも少しずつ慣れました。

そして講演に呼んでいただくようになりました。

若かった私は、「講演者」と書かれた特別なネームプレートを首から下げ、展示会場を歩くことが嬉しくて仕方ありませんでした。

おそらく今でも、同じように嬉しいと思います。

講演の依頼は、その後も続いていました。

けれど、2010年3月末で会社を辞めることを、私はすでに決めていました。

そのため、4月以降の日程でいただいた講演依頼は受けませんでした。

講演の仕事がなくなったから、そこで途切れたのではありません。

依頼をいただいている途中で、自分からいったん講演者としての時間を止めました。

会社の技術や研究成果を背負って話していた以上、退職後の日程まで引き受けることには違和感がありました。

その時は、それが自然な区切りだと思っていました。

まさか十数年後、自分自身の名前で、もう一度「講演」というものを考え始めるとは思っていませんでした。


走れる身体が戻ってきたように見えた

2007年から2009年頃。

私の体調は、それまでとは別人のように良くなりました。

市民マラソン大会に出ました。

登山マラソンにも参加しました。

かつてできなかったことが、またできる。

それが嬉しかった。

ただし、走れるということと、身体が正常に戻ったということは同じではありませんでした。

練習を終えると、私は人一倍疲れました。

大会を終えた後、疲れ切ってハイハイするように家へ戻った私を見て、妻は呆れていました。

外から見れば、マラソン大会に参加できる健康な人です。

でも私の身体は、その代償として大きな回復時間を必要としていました。

「できる」と「問題がない」は違う。

そのことを私は、長い時間をかけて知ることになります。


治療される側から、治療する側へ

2010年。会社では再び希望退職者の募集が始まり、疲れ切っていた私は応募しました。

普通の健常なサラリーマンとして、この先も働き続ける。その自信が、少しずつ薄れていました。

退職する少し前、会社帰りに京都医健専門学校へ立ち寄りました。入学資料をもらうためです。

長い間、私は治療を受ける側でした。

それなら、自分が治療する側へ回れないだろうか。

そこで話を聞いてくださったのが、当時鍼灸学科長だった菊井先生でした。

よく考えた末、そのタイミングでの入学は見送ることにしました。その決断とお礼を伝えたメールも、先生から届いた直筆の返信も、今も手元に残っています。

メールには、こう書いていました。

自身の経験を活かして、将来は人々の健康を支える仕事に付きたいという想いを抱きながらもこれまで、眼前の仕事を天命と信じて取組んでまいりました。

結局、私は治療家にはなりませんでした。

けれど、

自分が経験してきたことを、誰かの役に立つものへ変えられないだろうか。

その問いまで捨てたわけではなかったようです。

→ 菊井先生との手紙を読む


「普通のサラリーマン」以外の道を探した

会社を辞めた後、私は別の働き方を探しました。

その一つがFXでした。

当時、『職業選択肢の一つとしてのFX』というブログを書いていました。

身体に制約のある人間でも、場所や時間に強く縛られることなく生計を立てる方法があるのではないか。

そんなことを考えていました。

しかし実際に取り組んでみると、身体的な拘束は少なくても、精神的には非常に消耗する仕事でした。

安定した生活を支えるには難しかった。

投資とは、安定した収入と心の余裕があってこそ成立するものなのだと、身をもって知りました。

ネットショップの個人事業と並行しながら数年間続け、FXからは離れました。

その後はEC事業を残しました。

しかしブランドが確立する前のEC事業だけで、家族の生活を十分に成立させることは簡単ではありませんでした。

家庭でも簡単ではない時間が続きました。

ここでは、その詳細には触れません。


もう一度、会社で働いてみる

2018年。

以前から面識のあった現在のパントス会長へ、私はFacebookでメッセージを送りました。

そして同年4月、GNESで働き始めました。

長いブランクを経て、再び会社員として働くことになりました。

会社はM&A後の難しい時期にありました。

新しい経営側から送り込まれてきた人物として、私は警戒されていたのかもしれません。

最初の日。

旧役員の方から、

「君の席は、そこだ」

と言われました。

目は合わせてもらえませんでした。

「さて、お手並み拝見といこう」

そんな視線に囲まれているように感じました。

その制約条件の中で、私は業務を成立させようと必死でした。

片道の通勤時間は、車で約一時間半。

会社で身体のすべてを使い切れば、家まで帰れません。

帰宅できるだけの体力を残しながら、日々できるところまで出し切る。

そんな生活でした。

怪我の後遺症のことは、誰にも話しませんでした。

私は健常者として仕事をしていました。

毎日、濡れた絨毯を背負っているような身体で。


そして身体が動かなくなった

全国の新幹線車両所を回る、一週間単位のメンテナンス出張が続きました。ほぼ毎月です。

そこへ、仕事以外の大きなストレスも重なりました。

そして身体は、とうとう動かなくなりました。

妻が動いてくれました。明舞中央病院での検査入院を、前倒しで取り付けてくれたのです。

2019年。事故から24年が経っていました。


私の24年間と、病名が社会に認知されるまでの24年間

振り返ると、私が原因を探していた24年間は、この病態について日本の医療と社会が理解を深めていった時間とも重なっています。

  • 1995年 スキー事故。当時、低髄液圧による頭痛などの医学的概念は存在していましたが、日本で「脳脊髄液減少症」という呼称や、外傷後の多彩な症状との関係が一般に知られていた時代ではありませんでした。
  • 1997年 私は自分の症状を「むち打ち」と捉え、インターネット上の情報サイトへ手紙を書いていました。
  • 2000年代初頭 日本で、交通事故などの外傷後に続く症状と脳脊髄液の漏出・減少との関係が注目され、「脳脊髄液減少症」という呼称が広がっていきます。
  • 2004年頃 私自身もインターネットでこの病名とブラッドパッチを知り、「自分もそうではないか」と考えるようになりました。
  • 2007年 厚生労働科学研究として、脳脊髄液減少症に関する研究が開始されます。
  • 2011年 関連学会の承認を受けた「脳脊髄液漏出症の画像判定基準・画像診断基準」が公表されました。
  • 2012年 硬膜外自家血注入療法、いわゆるブラッドパッチが、一定の診断基準を満たす脳脊髄液漏出症を対象に先進医療となりました。
  • 2016年 一定の診断基準を満たす脳脊髄液漏出症に対する硬膜外自家血注入が、保険診療へ導入されました。
  • 2019年 私は事故から24年を経て、確定診断を受けました。

※制度・研究の経過は、厚生労働省公表資料等をもとに簡略化して記載しています。「脳脊髄液減少症」「脳脊髄液漏出症」「低髄液圧症候群」などは、時代や診断基準によって重なり方の異なる概念であり、ここでは私自身の経験との時間的な関係を示すことを目的としています。


事故から24年、身体に名前がついた

初めて診察を受けたとき、中川先生から言われた言葉があります。

「ずっと頑張ってきたけど、長年経って耐えきれなくなったんですね」

正確な逐語記録ではなく、私の記憶に残っている言葉です。

その言葉を聞いた瞬間、

あぁ、自分だけではないんだな。

と思いました。

痛いのは自分。身体が重いのも自分。雨の前に動けなくなるのも、仕事が終われば何時間も横にならなければならないのも、自分にしか分かりません。

二十年以上、自分の身体に起きていることを、自分なりに理解しようとしてきました。

その身体を初めて誰かから、「長い間、頑張ってきた身体」として見てもらえたような気がしたのです。

検査では、24時間後のRIシンチグラム残存率が7.5%。複数の所見と合わせ、長く続いた身体の不具合に「脳脊髄液漏出症(脳脊髄液減少症)」という名前がつきました。

事故から24年。ようやく、原因の分からなかった身体に診断名がつきました。

当時の診断書も、現在手元に残っています。

長く原因の分からなかった身体に、事故から24年を経て初めて診断名が記された資料です。

※住所などの個人情報はマスクしています。

→ 2019年の診断書を見る(個人情報マスク済み)

ただ、まったく予想していなかったわけではありません。

2004年頃にはインターネットを通じてこの病名を知り、「自分の症状も、おそらくそうではないか」という、かすかな確信を持っていました。ブラッドパッチという治療法があることも知っていました。

それでも診断と治療へ踏み出せなかった。単に、自費診療のお金がなかったからではありません。

もし治療を受けて、それでも治らなかったら。

「いつか治す方法があるかもしれない」

という最後の希望まで失うのではないか。

若かった私は、その可能性を確かめること自体が怖かったのです。

そして、確かめないまま十年以上を生きました。


治療すれば、元に戻れると思っていた

確定診断後、私は明舞中央病院へ通い、生理食塩水を用いた治療を受けました。2019年9月30日にはブラッドパッチを受けています。

もちろん、期待していました。

二十四年間分からなかった原因が分かった。

治療法もある。

ならば、今度こそ元の身体へ戻れるのではないか。

確定診断直後の2019年2月26日、私はXにこう書いていました。

よくこんな身体で24年間生き抜いてきたものだ。
完治すれば、どこまで上り詰められるだろうか。楽しみで仕方がない。

今読み返すと、当時の自分がどれほど「完治」の先を見ていたのかが分かります。

初診では、「二十年以上も経過した症状は、なかなか改善しないかもしれない」という趣旨の説明も受けていました。

それでも、期待せずにはいられなかったのでしょう。

妻に「少し良くなったかもしれない」と話したこともあります。そうであってほしかったのかもしれません。

少なくとも私自身が思い描いていたようには、身体は変わりませんでした。


「元気です」「大丈夫です」と答えていた

2019年5月12日、Xに残した言葉があります。

「元気か」と聞かれれば「元気です」と答える。
「大丈夫か」と聞かれれば「大丈夫です」と答える。

余計な心配を掛けたくないという気持ちと、理解されずに傷つきたくない抵抗と、正直さは時折損を招くことを知っているから。

ひとりの理解者が身近に居てくれれば、それで十分。

見た目には分かりにくい症状でした。「元気です」と答えた方が説明は早い。「大丈夫です」と答えた方が相手も安心する。

そうやって健常者の側に立ったまま、身体の内側では別の時間を生きていました。

同じ年の3月には、

朝が来るのが怖かった時期もあった。神経が目覚めるから。

とも書いています。

朝は、新しい一日の始まりではなく、痛みや重さまで一緒に目を覚ます時間でもありました。


ブラッドパッチのあと、記録が途切れた

不思議なことに、ブラッドパッチを受けた後の私は、その結果をXにほとんど書いていません。

「治った」とも。

「治らなかった」とも。

それまで検査や治療、気圧と身体の関係まで細かく書いていた記録が、そこで途切れます。

当時は身体の問題だけではなく、親族間の問題や子育てをめぐる課題も重なり、心の状態も大きく崩れていました。

メンタルクリニックを初めて受診した日、診察室で私は大泣きしました。

抗うつ薬、睡眠導入剤、精神安定剤の処方を受けました。薬が身体に合わず、ただでさえ起き上がれない朝が、さらに苦痛に感じられた時期もあります。

目を覚ましても、シャッターを開けられない。

カーテン一枚を引くことさえ、できない。

外では朝が始まっているのに、自分の部屋だけが夜の続きのようでした。

約一年後の2020年9月。久しぶりにXへ残していたのは、斎藤一人さんの講演動画へのリンクでした。

二十年近く前にも心を救われた方の言葉を聴きながら、その夜の私は、

「朝が来るのが楽しみ」と思える時は、必ず再びやって来る✨

と書いていました。

なぜ、この時期のことをほとんど書かなかったのか。今の私にも、正確には分かりません。

ただ、言葉にして整理できるほど単純な時間ではなかったのだと思います。


「いずれ快復した際には、恩返しを」

確定診断後、私は傷病休暇に入り、2019年5月15日付でGNESを一度退職しました。

いざという時のためにヘルプマークを持ちながら、普段はできる限り普通の人として生活する。その代わり、家では人の三倍くらい寝ていました。

退職前の5月6日、一緒に働いてきた皆さんへ手紙を書きました。

その原文が、2026年になって出てきました。

いずれ快復した際には、お詫びと恩返しをさせて頂きたいと考えております。

記憶の中では、私は「帰って恩返しをする」と書いたつもりでいました。けれど、当時の原文は少し違っていました。

「帰る」とは書いていない。

ただ、「恩返しをしたい」と書いていた。

同じ手紙には、

自分に合った治療でこの機会に全快を目指したい

ともあります。

まだこの頃の私は、「全快すること」を次の人生の入口に置いていました。

→ 2019年、GNESを去るときに書いた手紙を読む


治ってから戻るのではなく

2021年1月。

週三日勤務という条件を認めていただき、私は再びGNESで働き始めました。

完全に元の身体へ戻ったからではありません。

今ある身体で仕事を成立させるために、仕事の条件を変えて戻りました。

これは、私の中では大きな変化だったと思います。

それまでの私は、どこかで「治ってから戻る」「元に戻ってから人生を再開する」と考えていました。

でも、治り切らないまま戻ることもできる。

週五日が無理なら、週三日から始めればいい。

身体そのものを思い通りに変えられないなら、身体を取り巻く条件の方を変える。

会社へ行き、誰かと話し、仕事をし、夕方に帰る。

社会との接点をもう一度持てることが、私は正直に嬉しかった。

朝、カーテンを開けられるようになった自分も、嬉しかった。

仕事へ戻ったことが医学的に心身を回復させた、と言いたいわけではありません。

ただ私自身の経験として、社会との接点を取り戻しながら、生活の輪郭も少しずつ戻ってきたように感じています。


家を青くした

回復は、ある朝突然やって来たわけではありません。

少し動ける日が増え、仕事ができる時間が伸び、また疲れて横になる。そんな小さな行き戻りを繰り返しました。

2022年の6月から7月頃、家の外壁を青色にきれいにしました。

その頃から、しばらく遠ざかっていた園芸の趣味が戻ってきました。

土を触る。鉢を置く。芽が出る。花が咲く。

植物は、こちらの都合に合わせて急いではくれません。

季節と日差しと水と根の状態。その条件の中で、少しずつ育っていきます。

私自身も、似たような速度で戻ってきたのかもしれません。

今の元気さまで、何年もかかりました。


身体は、すでに別の方法で生きることを覚えていた

今の私は、2019年当時とは少し違う見方をしています。

二十年以上という時間は、とても長い。

その間に、学校へ行き、仕事をし、結婚し、子どもを育て、文章を書き、研究し、営業し、講演し、会社を辞め、事業を始め、もう一度会社員へ戻りました。

身体もまた、その二十数年間を一緒に通過しています。

医学的にどう説明できるのかは、私には分かりません。

ただ私は今、

私の身体は、私の生き方に合わせながら、長い時間をかけて何とか均衡を作ってくれていたのではないか

と考えることがあります。

治療をすれば、1995年3月14日の身体へ戻れる。どこかで、そんな「復元」を期待していました。

けれど人生は、保存しておいた状態へ戻すコンピュータではありません。身体も人生も、二十四年分の時間をすでに通過している。

ならば、昔の身体へ戻る方法だけを探し続けるのではなく、今ある身体で次の人生を成立させる方法を考える。

少しずつ、私の問いはそちらへ変わっていきました。


恩返しを終えた日に、次の会社が現れた

GNESへ戻った私は、そこで自分なりの恩返しをしました。

自分が獲得した大型案件は、その後会社へ大きな利益をもたらしました。

2024年夏。私の中でようやく、「これで恩返しは終わった」と思えるところまで来ました。

グループを離れよう。今度こそ、きっぱり次へ進もう。

その意思を社長へ伝えました。

そして、まさにその日。

社長のもとへ、一件のM&A案件が持ち込まれました。

会社の名前は、

株式会社パントス。

ここから先は、また別の物語です。

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治ってから生きるのではなく

20歳だった私は、「七年で治す」と期限を決めました。

七年目の2002年。

身体は、私が決めた期限どおりには治ってくれなかった。

でも、その年の7月、私は結婚しました。

身体が治るのを、人生は待ってくれませんでした。

というより、今ならこう思います。

人生は、条件が整ってから始まるものではなかった。

身体が完全には治らなくても、仕事をしました。小説を書きました。研究し、商品を作り、営業し、人前で話し、事業を始め、もう一度会社へ戻りました。

2019年に病名が確定しても、すべてが解決したわけではありません。治療を受けても、期待したような「元の自分」には戻らなかった。

心まで落ち、カーテンを開けられない朝もあった。

それでも、週三日から社会へ戻りました。家を青くしました。植物を育て始めました。

52歳になった今も、身体と相談しながら生きています。

長い間、私は、

治ってから人生を取り戻す

つもりだったのでしょう。

けれど実際には、いつの間にか別の生き方をしていました。

治り切らない身体のままでも、人生の成立条件を組み替える。

私が今、「与えられた変数と制約条件の中で、人生と幸せを成立させる」という言葉を使うのは、おそらくそのためです。

私は、この時間を「すごいでしょ」と語りたいわけではありません。

同じ病気や、別の制約条件の中で生きている誰かが、「この人だからできた」で読み終えてしまうのなら、あまり意味がないと思っています。

社長になる必要もありません。何か大きなことを成し遂げる必要もありません。

私ができたことの三分の一でもいい。

自分に与えられた条件の中にも、

それなりに幸せな人生を成立させる方法が、まだ残っているかもしれない。

そう感じてもらえる、一つの前例になれればいい。

この物語は、まだ執筆の途中です。

そして私自身の人生も、まだ途中にあります。

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