――進まなかった道も、人生に残る

会社帰りに、私は京都医健専門学校へ立ち寄りました。

鍼灸科の入学資料をもらうためでした。

1995年のスキー事故以来、私は長い間、治療を受ける側にいました。

鍼。

整体。

カイロプラクティック。

身体を少しでも楽にする方法がないかと探しながら、数え切れないほど施術を受けてきました。

そのうち、私の中に一つの考えが生まれていました。

これだけ治療されてきたのなら、今度は自分が治療する側へ回ることはできないだろうか。

資料だけもらって帰るつもりだったのかもしれません。

けれど、そこで話を聞いてくださったのが、当時、鍼灸科の学科長だった菊井由紀子先生でした。


入学できる場所まで来ていた

先生には、自分の身体のこと、これまでの仕事のこと、そして将来、人の健康に関わる仕事をしたいと考えていることを話しました。

唐突に訪れた私に対して、先生は丁寧に話を聞いてくださいました。

しかも、入学について特別に枠を確保するところまでお心遣いいただきました。

つまり、進もうと思えば進めるところまで来ていました。

会社を辞める。

鍼灸を学ぶ。

治療されてきた自分が、治療する側へ回る。

長く身体に苦しんできた自分にとっては、とても自然な未来にも見えました。

ところが、先生にお会いしたあと、私は自問自答を続けました。

そして、進まないことを選びました。


「来春での入学は見合わせたい」

後日、私は菊井先生へメールを送りました。

その文章が、今も残っています。

そこには、こう書いていました。

結論から申し上げますと、来春での入学は見合わせたいとの結論に至りました。

入学できなかったのではありません。

むしろ、入学できるところまで道は開いていました。

それでも、その道を選ばなかった。

理由は、当時の自分が置かれていた場所でした。

自身の経験を活かして、将来は人々の健康を支える仕事に付きたいという想いを抱きながらもこれまで、眼前の仕事を天命と信じて取組んでまいりました。

今私がいる立場、周辺の状況を改めて総見してみて、まだ投げ出す訳にはいかない、との想いにいたった次第です。

「やりたいこと」と「今やるべきこと」が、同じ方向を向いていない。

そんな時があります。

新しい道が魅力的だからといって、現在の道を乱暴に捨ててよいとは限りません。

当時の私は、そう判断したのだと思います。


それでも、夢を捨てたわけではなかった

興味深いのは、入学を断るメールでありながら、文章全体が「諦めます」という内容ではないことです。

むしろ逆でした。

面談頂いた際に私がお話させて頂いた想いはこの先も決して変ることはなく、今回のタイミングでは叶わないい夢も、来るべき機会に必ず実現していきたいという想に高まっています。

そして私は、自分が目指していたものを、もう少し具体的に書いていました。

自己治癒力を誘発する治療とともに、心のケア、トータルでの医療に従事できる人間になりたいです。

まだ少し時間を要するかもしれません。

今読むと、この「まだ少し時間を要するかもしれません」という一文が心に残ります。

実際には、少しどころではありませんでした。

私はその後、鍼灸師にはなりませんでした。

別の仕事をし、事業を始め、もう一度会社員へ戻り、やがて会社経営をすることになります。

人生は、あの日想像していた道とは違うところへ伸びていきました。


「時期が来たときに、改めて」

メールの終盤で、私は先生へこう書いています。

時期が来たときに、改めて菊井先生のところへお伺いします。

それまでご記憶頂ければ幸いです。

そして最後に、当時好きだった言葉を添えていました。

「人間は、一生の中で出会うべき人に必ず出会わされる、それも一瞬早すぎず、遅すぎないときに」

そのあとに、

今回、菊井先生にお会いできたことで、実感しています。

感謝。

と結んでいます。

今読み返しても、当時の自分らしい文章だと思います。

進まないという決断を伝えるメールなのに、終わりには未来を残している。

扉を閉めるのではなく、

「今ではない」

と置いている。


先生から届いた、直筆の手紙

メールを送った後、菊井先生から一通の手紙が届きました。

印刷された案内ではありません。

先生が手書きで書いてくださった手紙でした。

そこには、東洋医学は長い歴史を持つのだから急ぐ必要はないこと、患者として鍼灸を受ける経験そのものも学びになること、自分の身体で「どうすれば楽になるか」を経験することにも意味がある、という趣旨の言葉が綴られていました。

そして、夢や希望についても、温かい言葉を添えてくださいました。

その手紙も、今も手元に残っています。

私信ですので、ここでは全文を掲載しません。

ただ、長い時間が経った今も捨てずに残していたという事実が、その手紙を私がどう受け取ったのかを表しているように思います。


治療家には、ならなかった

私は結局、鍼灸師にはなりませんでした。

だから、あの日の選択を「夢を実現した話」として書くことはできません。

けれど、不思議なことがあります。

1997年、22歳だった私は、

「自分と同じような症状で悩んでいる人たちに、何らかの形で貢献したい」

と書いていました。

その十数年後、今度は本当に治療する側へ進もうとしていました。

そして、進まなかった。

さらに時間が流れました。

今の私は、治療家ではなく、経営者として働いています。

それでも、自分が長く経験してきたことを言葉にし、同じような制約の中にいる誰かへ渡したいという思いは残っています。

形は、当時想像していたものとは違います。

けれど、根の部分はあまり変わっていないのかもしれません。


進まなかった道も、人生に残る

人生を振り返ると、「選んだ道」ばかりに意味があるように見えます。

どの学校へ進んだ。

どの会社へ入った。

何の仕事をした。

けれど実際には、選ばなかった道も、その後の自分の中に残り続けるのだと思います。

私は鍼灸師になりませんでした。

それでも、患者として身体を観察すること、人の痛みを想像すること、身体だけでなく心まで含めて人を見ること。

あの時考えていたことは、別の形で今の仕事や人との向き合い方へ流れ込んでいます。

進まなかった道は、消えた道ではありませんでした。

歩かなかったその道もまた、今いる場所へつながっていたのだと思います。

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