第4章 白鳥は風に向かって飛び立つ
会場には千五百名を超える全国の経営者達が座っている。司会者に紹介された宗像が、大勢の拍手に導かれるように演台に立ち、そしてゆっくりと話しはじめた。
「アランドリーの宗像です。この会場にいらっしゃる経営者のみなさんは、私よりもひとまわり、ふたまわりもお若い方ばかりですから、どこまで実感を持って私の話を聞いていただけるかはわかりませんが、私が会社を起こしてから今年で三十五年、その中で体験した様々な出来事、そこから得た経験について少しお話させていただきたいと思います。少しでも皆様の経営にお役に立てればと思います。
――私が集団就職で新潟の田舎から大阪に出てきたのは昭和三十七年の春でした。ちょうどカラーテレビの放送が開始された年です。当時、比較的裕福な家庭にはテレビや洗濯機がありましたが、まだまだ白黒テレビですらあまり普及していなかった時代です。洗濯にいたっては洗濯板が主流でした。三大家電、三大神器といわれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機の開発競争がいよいよ激しくなりはじめたのがちょうどその頃です。今の大手電機メーカーが飛躍的な成長を遂げるきっかけとなった時代ともいえるでしょう。
私が生まれ育った田舎というのは、新潟県北蒲原郡水原町といいまして、白鳥で有名な瓢湖のある土地です。冬になるとシベリアから越冬のために何千羽という白鳥が飛来します。日本ではじめて野生の白鳥の人工給餌に成功したのが昭和二十九年。国定公園に指定されて今でこそ観光地として栄えていますが、当時はまだ観光客の少ない場所でした。冬がとても厳しい地域です。そこで観光客相手の旅館を営む両親の元に私は四男坊として生まれました。昭和十八年ですから、日本は太平洋戦争の真っ只中です。その後日本は戦いに敗れ、物が不足する中で私は幼少時代を過ごしました。我慢、忍耐の必要な時代だったと思います。でもそれがそのときの私たちにとっては普通の環境でしたし、贅沢は悪いことだという思いがありましたから我慢もできました。欲しがることもありませんでした。そういう環境の中で幼少時代を過ごしたためか、その反動といいましょうか、決して裕福な家庭ではありませんでしたが、中学卒業を前にして私は高校に行って勉強をしたいと両親に伝えました。『農民、商人に勉学不要』というのが私の父の口癖でしたから、はじめはとても強く反対されました。私も頑固で負けん気が強い人間でしたから、簡単には引き下がりませんでした。しばらく険悪な状態が続きました。学費の面からも親が『よし』と言ってくれなければ私にはどうしようもなかったのですが、家を飛び出してでも高校に進学したいと思うぐらい強い思いでした。学問を身に付けて立派になって裕福になりたいという思いが強かった。自分だけのためじゃなく、親兄弟も自分の力で裕福にしたい、その思いが強かったです。
そこまでの思いだと知ると、兄や姉も末っ子の私を応援してくれるようになりました。そして最後には父も折れてくれて、私が高校に進学することを認めてくれました。貧しかったけれども温かい家庭でした。
高校までは少し遠かったので、私は学校の寮に入って毎日勉強に励みました。親の仕送りで勉強させてもらっているわけですから遊ぶわけには行きません。帰省するにもお金がかかりますから、実家に帰るのは数ヶ月に一度です。
あるとき、私が実家に帰ってみると、玄関の中から男の怒鳴り声が聞こえてきました。それまでは、『ただいま』と大きな声で笑顔で帰っていたのですが、怒鳴り声が玄関の中から聞こえてくるのですから、中に入るわけにはいきませんでした。ただ事ではない雰囲気に私もすぐに気が付きました。怒鳴り声の合い間あいまに父の小さな声が聞こえてくるのです。『ごめんなさい、ごめんなさい。お金は何とかしますから、もう少し待ってください』と涙声が聞こえてくるのです。そんな弱い父の姿を私はそれまで見たことがありません。これは大変なことだぞ、と私は思いました。
その借金取りの男は玄関のドアを蹴飛ばして出てきました。少し離れて立っていた私を睨みつけるようにして帰っていきました。
私が家の中に入ると、父は無理な笑顔を作って私を迎えてくれました。疲れ切った笑顔です。『何も心配することないぞ、泰造、しっかり勉強するんだぞ、必ず卒業させてやるからな』と言うのです。私は言葉が出なかったです。
瓢湖が国定公園に指定されてからというもの、観光地として有名になりましたから、大きな資本が投入されていくつもの立派なホテルが建設されました。観光ブームが押し寄せて近代的なホテル、旅館が次々に建設されたのです。そうなると、私の実家のような小さな旅館は客数が極端に減って経営が一気に苦しくなってしまいます。設備をよくしてサービスを高めようにも日々の生活で苦しいわけですからそんなお金もありません。そのような中で父は借金をして何とかしようと頑張っていたのです。銀行は鼻から相手にはしてくれません。だから高利貸しに手を出したのです。旅館を改築して客を集めれば借金はすぐ返せると考えていたのです。でも、そううまくはいきませんでした。私が高校を卒業するのと同時に、実家の旅館は経営不振で他人の手に渡りました。
そこまでして両親は私に投資してくれていたのです。実は、借金取りが玄関で怒鳴り散らしていたその日、私は大学への進学について両親に相談しようと帰省したのでした。大学への進学はあきらめるしかありませんでした。
昭和三十七年に商業高校を卒業して働くことになったのですが、当時新潟の田舎には就職先などありません。兄が継ぐ予定だった旅館も他人の手に渡ってしまったわけですから、私たちは都会に出て働くしか仕方がない、そんな状況でした。周りもみんなそうでした。東京・大阪、産業が栄える土地に出向いて働く。親元を離れて知らない土地で働く。なんとも寂しい経験です。
私が大阪に向けて出発する日、村中の人たちがバス停のところまで見送りに出てきて、私に握手を求めて『頑張れよ』『頑張ってこいよ』という風にして送り出してくれました。木炭で走るバスに乗り込んで、窓の外を見ると皆が私に手を振ってくれています。両親の姿もそこにあります。バスが走り出すと『ばんざーい、ばんざーい』の声が起こるんですね。思わず涙がこみ上げました。木炭バスですから、真っ黒い煙をはきながらゆっくりと走り出します。後ろの窓を見ると、砂ぼこりの中、涙ながらに手を振ってバスを追いかけて来る母の姿が見えました。
『泰造、出世するまで帰ってくるんじゃないよ、立派になるまで帰ってくるなよ』
母として息子を送り出す最大限の励ましの言葉だったと思います。エンジンの音の中に、母の震える小さな声もはっきりと聞こえました。そのときの情景は今でもはっきりと覚えています。私は涙が止まらなくなりました……。集団就職を不安とあこがれの旅立ちと表現されることもありますが、そのときは正直言って、あこがれなんてなかったと思います。不安だけでした。私はそれまでずっとガキ大将的な存在でしたが、心内はやはりまだまだ子供だったと思います。
私を乗せた木炭バスは、途中いくつかの村で私と同じように集団就職に出る少年たちを乗せました。私は高卒でしたが、周りのほとんどはまだ幼い顔をした中卒です。少年たちがバスに乗り込むたびに村の人たちのあいだから『ばんざーい』の声が上がります。皆泣いていました。家族、村中の人たちの希望を背負って遠い土地まで行くわけですから、背負わされた期待、そこに感じる不安は相当なものだったと思います。
国鉄新潟駅からは列車の旅です。新潟から大阪までは五六〇キロの距離です。今でこそ電車は速くなりましたが、それでも特急列車で六時間半かかります。当時は九時間くらいかかりました。
私が旅立つ前の年に白鳥号という青森と大阪を一本で結ぶ特急列車の運行がはじまっていました。ちょうど日本列島特急時代の幕開けとされた時期です。
木炭バスを降りた私たちは新潟駅からその特急白鳥号に乗り込みました。
船の出発を見送るように、動き出す車窓から何本もの紙テープが伸びています。私の見送りはバスに乗り込むところまででしたが、ホームには他の少年たちを見送りに来た人たちが大勢詰めかけていました。やがて列車は動き出してテープは切れます。新潟駅のホームが、遠く小さくなって、そして見えなくなりました。少年たちは、小さくなった紙テープをいつまでも握り締めています。車内に元気はありません。皆、黙ったままです。不安だから仕方がないです。大きな荷物を抱えての片道切符の旅です。故郷にいつ帰れるかわからない旅の出発だったのです。『出世するまで帰ってくるな』。それが送り出されるときの励ましの言葉です。小さな背中に重くのしかかる言葉です。
繊維産業で栄える石川、福井あたりから列車を降りていく少年の数が増えました。私も長旅の中で少し言葉を交わした友達に手を振ります。その彼も少し微笑んで私に手を振り返してくれます。長旅に疲れきった弱々しい足取りで彼は列車を降りていきました。おそらくもう二度と会うことのない少年たちが、同じ目的のために各地に降り立ち、そして将来の日本を支えていく。これがあったから今の日本があるのです。
私が降り立ったのは特急白鳥号の終着駅、大阪でした。九時間の旅は身体に堪えました。一睡もできませんでした。身体の疲労とともに、これからの生活に対する不安、精神的な消耗がとても大きかったです。
駅に降り立ってまず驚いたのは、人の数とその歩く速さでした。目がまわりそうでした。異国に降り立ったような、いきなりのカルチャーショックです。田舎町と都会とでは時間の流れが明らかに違いました。迎えに出てきてくれていた就職先の担当者に連れられて何とか会社の寮までたどり着いたという状態です。
私の就職先は、その前の年に大阪に出てきていた親戚が紹介してくれたものでした。紹介というか、その親戚が身体を壊して新潟に帰ることになってしまったから、その代わりに私が勤めることになったというような状況です。
どんな業種かといいますと、電機メーカーの下請け工場です。洗濯機の外枠のプレス加工と簡単な組み立てをしている工場でした。
はじめに任された業務というのは、私が商業高校を出ていたということもあって、経理業務でした。高校時代に商業簿記の知識を身に付けていましたから、私には誰にも負けない自信がありました。負けん気だけは強かった。置かれた環境の中で私は必死になって働きましたし、実際、業務の正確さと速さで誰にも負けなかったと思います。
ただひとつだけ耐え難い仕事がありました。それは電話の応対です。新潟から出てきた私のしゃべり方にはかなりの田舎訛りがありましたから、得意先に一生懸命説明しても、何を言ってるのかわからない、何が言いたいんだ、とよく怒鳴られました。大阪の土地柄、普通にしゃべっていても怒られているように聞こえてしまう。はじめの頃は電話恐怖症になっていました。電話が鳴っても、わざと忙しい振りをして誰か別の人が電話に出てくれるのを待っていました。別の人が電話口に出てくれてほっとしていると、また電話が鳴るのです。今度は電話を取る人が私しかいないんです。そういう電話に限って怖い人からのクレームの電話だったりするんです。世の中、うまくできています。さぼるなよという神様の声なんでしょうね。そうして私は鍛えられたと思います。
その会社の社長はとても厳しい人でした。せっかく手にした仕事でしたから、はじめのうち私は文句ひとつ言わず必死で働きました。けれども、しばらくして私はその社長のもとで働いているうちに違和感を覚えるようになりました。封建時代さながらの徒弟制度がその会社には残っていました。気合、根性で仕事をこなし、休むことなく仕事は身体で徹底的に覚えろ、というやり方です。それにはそれなりにいい部分があったと思いますが、私が辛かったのは、社長の社員に対する扱いがあまりにひどかったという点についてでした。お金で雇ってやっているのだという態度がありありと見えたのです。私のように住み込みで働く者は、まるで家畜のような扱いを受けました。仕事が終わってからも社長の私用にこき使われるのです。奥さんの買い物や息子の遊びにまで付き合わされるのです。少しでも文句を言おうものなら、『雇われの身で何を言うか! てめえらごときに幾ら払ってやっていると思っているんだ!』と怒鳴り散らされるのです。私も幾度となくそこを飛び出そうとしました。けれども、結局飛び出すことはできませんでした。じっと耐え続けました。私にその会社を紹介してくださった方の顔を潰してはいけないという思いと、今仕事を辞めても不景気で次の働き口が見つかるかわからないといった不安があったからです。それに、けっして多くない給料でしたが、その中から新潟の親元に少し仕送りをしていましたから。我慢して私はその社長のもとで働き続けることにしました。
気分屋の社長には泣かされ続けました。本当に辛かったです。私も負けん気が強かったですから、正しいと思ったことや間違っていると感じることは積極的に提案したり指摘したりしました。けれども社長は、『金で雇われている人間が偉そうな口を利くな!』『生意気なクソガキが!』と跳ね除けるのです。耳をふさぎたくなるような暴言も何度も浴びせられました。雇われの身というのは金で身も心も買われた奴隷なのかと私は悲しくなりました。
けれども私は、納得いくまでその会社で頑張ると決めていましたから、社長から暴言を浴びせられたあとは、目の前の仕事によりいっそう熱心に取り組みました。早く仕事を身につけて独立したいという気持ちが既に芽生えていたからかも知れません。自分もいつかは人の上に立って大きな仕事をしたい。その思いが次第に育っていきました。
私の仕事は経理業務からスタートしましたが、毎日数字ばかりを見ていることが次第に面白くなくなっていきました。物を作っている会社なのに、数字しか見ていないから、その数字が何を意味しているのか、物の流れがどうなっているのか、ぜんぜんわからないのです。探究心は人一倍強かったのだと思います。働きはじめて一年経過した頃、私は新しいことに挑戦したくなって社長に直接『製造現場で組立作業をさせてください』と申し入れました。すると社長は驚いた顔をして『給料が今の七割に減るぞ、それでもいいのか』といいます。私は、『それでもいい』と言って製造現場に入らしてもらうことになりました。
私が製造現場に異動になってすぐのころは、周りの皆は、私が何か仕事上のミスをして飛ばされてきたのだと気の毒そうに私を見ていました。ところが私は活き活きと仕事をしています。入社二年目でしたけれど、皆は私の一生懸命な姿を見て、付いて来てくれるようになりました。やはり、根っからのガキ大将だったのだと思います。
それでも夜に下宿に戻ると、なんともいえない寂しさが込み上げてきます。眠れない夜も数え切れないくらいありました。故郷の皆はどうしているだろうか、片想いしていた女の子は元気にしているだろうか、気が付けばそんなことを考えています。冬になると白鳥の集まる瓢湖の情景が頭に浮かびます。当時はまだ飛来する白鳥の数は数百羽程度でしたが、その飛び立つ姿はとても美しいものです。白鳥は風に向って飛び立ちます。自分もそんな風になりたいと思った記憶があります。
大阪の地で成人式を迎えた翌日、故郷の母から電報が届きました。小さな紙にカタカナで書かれた電報です。
「シッカリトタベナサイ カラダヲダイジニシナサイヨ セイジンオメデトウ」
祝いの言葉よりも先に、息子の身体を案じる言葉をもってくるあたりが母親らしくてうれしかったですね。手を振って涙ながらに見送ってくれた日のことを思い出して、私はまた泣いてしまいました。
それからしばらくして、会社の業績が極端に悪くなりました。発注もとの大手電機メーカーの製品戦略に対応し切れなかったというのが原因です。社長が横柄だったということも要因のひとつかも知れません。一気に資金繰りが悪化しました。下請け中小企業の怖さです。
私は、せっかく手にした仕事を失いたくはありませんでしたし、働くことの喜びというものも感じはじめていましたから、なんとか会社を立てなおしたいと考えました。高卒で働きはじめて三年目です。会社が継続できないなら、業務の一部を私に譲ってくれ、と社長に直接申し入れもしました。
そうしていろいろ紆余曲折を経て、今の洗濯機メーカーのアランドリーが誕生したのです。私は二十歳でしたが、その若造に付いて来てくれる社員が何人もいたのです。こればかりは変えがたい財産です。私たちは工場の一部を借り受ける形で会社をスタートさせて必死で働きました。資金は、私に懇意にしていただいた吉田政二郎さんという方からの期限付きの支援です。板金プレスだけをしていた工場から、設計開発・製造販売まですべて手がけようというのですから、はじめのうちはそれはもう失敗の連続でした。設計に対する知識もまったくない状況です。私たちは見よう見まねで必死でした。
でも不思議なことに事業に失敗するという不安はまったくありませんでした。必ず立派な会社にしてみせるという自信がありました。幼少時代に、母があかぎれた手で洗濯板を使って洗濯する姿を見ていましたから、なんとかその母に早く親孝行をしたいという思いが強かったです。新潟の冬はとても厳しい、水はとても冷たい。私が作る製品でその苦労から早く開放してあげたい、そのチャンスが目の前にある。私はもう必死でした。
会社を設立してから半年後に第一号製品が完成したときは、本当にうれしかったですね。十数名の社員と祝杯を挙げてお祝いしました。製品には生まれ故郷の瓢湖を意識して、白鳥をモチーフにしたロゴを入れました。今のアランドリーのロゴマークはそこからはじまったのです。
でも商売というのはそう簡単なものではありません。なかなかうまくいかないものです。物ができても次は売る苦労が付いてまわります。商品は売れてこそ価値のあるものです。売れなければ意味がありません。
裕福そうな家庭を狙っての訪問販売です。洗濯機を手押し車に乗せてあちこちの家をまわります。泥んこになって家に帰っていく子供達の後を追いかけて、その子が入っていく家を狙っての訪問販売です。扉さえ開けてくれない家もあります。油まみれの作業着を着て訪問するわけですから、あからさまに嫌な顔をされることも一度や二度の経験ではありませんでした。
そこで思いついたのが、今のコインランドリーの原型となる店舗戦略です。人通りの多い通りに面した民家や商店にお願いして空いた場所に洗濯機を置かせてもらうのです。簡単な屋根を付けて、そこにホースで水を引いて、一回の使用で十円入れていただくというやり方です。洗濯機を置かせてもらうだけでも相当な苦労です。半月だけ何とか、と無理を言って場所を貸してくださいとお願いするのです。でも、やっとの思いで洗濯機を置かせてもらっても、使ってくれるお客さんはほとんどいません。使ってくれる人がいたとしても今度はお金をちゃんと入れてくれる人がほとんどいません。でも、私ははじめからそんなことは百も承知でした。悪知恵だけは優秀でした。代金ボックスを開ける際に土地の貸主を立ち合わせて、ほら、こんなにお金が入っているでしょう、と言ってパフォーマンスして見せるのです。もちろん、お金は私が自分で入れました。社員総出でその洗濯機を使いに行きます。社名の入った作業着だけは洗うなよ、と言い聞かせてました。そして、コインも多めに入れておく。コインボックスからジャラジャラと十円玉がたくさん出てくるから、主人は目を丸くして驚きます。すると、主人は一台売ってくれ、そんないい製品なら家に置かしてくれ、と言ってくるのです。もう要らないから洗濯機を引き上げてくれと言われた場合には、素直に応じるのです。すると今度は、十日もしないうちにまたその主人から連絡が来て、もう一度置いてくれと言ってくるのです。ひとりでも固定客が付くと、『洗濯機がなくなって困った』という声が主人のところに寄せられるのです。そうなることを私ははじめからわかっていました。そういったやり方も交えながら、あれこれ工夫しながら商売をうまく軌道に乗せることができました。
次に起こる問題はクレームです。今でこそ日本の電化製品というのは故障率の低いものですが、当時の製品というのはしょっちゅう壊れるものでした。クレームは値引き要求にもつながります。でも、私は、値引き交渉には一切応じませんでした。逆に、上位機種の新品と交換するという方法をとりました。新品といっても社内で試験機、デモ機として使用していたものを転用しましたから痛くも痒くもなかったのですが、お客さんはそんな社内事情など知りません。逆にアランドリーの評判はどんどん上がりましたね、対応がいいと。実際には製品が壊れて迷惑を掛けていたんですけど、逆にそれを利用して信頼を得ることができたのです。
