第5章 成功のあとに来るもの
そうして商売がうまくいきはじめると、私も若かったですから、私は商売の天才じゃないか、と思うようになりました。はじめのうちは寝食を忘れて必死で働いてましたから、その姿を見て社員も黙って付いて来てくれましたし、給料どうこう関係なく、誰も文句など言ったりもしませんでした。皆、私のもとで働くことが楽しかったんだと思います。私は以前の社長の様に社員に接してはいけない、という思いを強く持っていましたし、また奴隷のように使われる社員の気持ちを身を持って経験していましたから、社員には温かく接するようにと心掛けていました。けれども、その思いを長続きさせるというのは難しい。人間というものは反省を繰り返す必要のある生き物だと思います。
事業はうまくいきはじめました。今度は、さらに業績を伸ばそうと、私は経営を学ぶ場を求めて地元の青年会議所の会合に参加するようになりました。商売もそれなりにうまくいっていましたし、ましてや自分のことを商売の天才だと思い込んでいましたから、誰かから経営を教わろうという気持ちよりも、宗像というすごい人物がここにいるぞ、というのを周りに見せ付けたいという気持ちが強かったかも知れませんね、今思うと。ただの目立ちたがりです。
青年会議所の会合には元気な若手経営者たちがたくさん集まっていました。今ここにいらっしゃる方々のようにエネルギッシュで目を輝かせて。ただ違う点というと、その当時の皆はもっとやんちゃ者だったという点でしょうか。米光経営哲学を学ぼうという人たちは、謙虚であることの大切さをまずはじめに学びますから、そのようなことはないと思いますが、当時の青年会議所のメンバーというのは、私をはじめとして、生意気でとにかくやんちゃで元気な集団でした。集まるたびに夜の店を飲み歩き、悪い遊びもそこでたくさん覚えました。兄貴分の先輩経営者に連れられて、あちこち遊びまわりました。金遣いもとにかく気前がいい。二十代そこそこで、皆何台もの外車を乗りまわしているわけですから、世の中は自分たちを中心に動いているとさえ錯覚していましたね。気前がいいから人も寄ってくる。でも、仕事だけはしっかりとやりました。いくら遊びが楽しくても、夜の八時九時まではしっかりと仕事をする。遊ぶのはそれからです。北新地のスナックの前に外車を横付けてして、気心の知れたメンバーで朝方まで高級スナックのはしごです。それでも次の日は他の社員たちが出勤してくる前からきっちりと働きました。
自分のことを商売の天才だと勘違いしているわけですから、ある時期私は、洗濯機だけじゃなく家電製品全般を手がけてみようと考えました。会社を設立してから十年近くが経過した二十九、三十歳の頃です。やることすべてがうまくいっていましたから、そう思うのも無理がない状況です。
優秀な社員は、私が少し暴走気味なことに気付いていましたから、止めてくれようとして反対しました。失敗するから今はやめたほうがいい、と忠告してくれました。けれども私は自分に不可能はないと思い込んでいましたから、自分ひとりの考えで強引に進めました。忠告してくれた幹部社員は即刻、平に降格です。私は天狗になっていたのだと思います。
資金も潤沢でしたから、新たに工場を建てて、社員を増員して掃除機や冷蔵庫の開発をはじめました。
――やはり失敗です。もともと器用ではなかったのに、あれもこれも、と手を出してしまったからやはり失敗してしまったのです。天才でもなんでもなかったのです。でも、その当時は失敗だとは気付きませんでした。逆にどんどん投資額を増やしました。結果として損失はどんどん大きくなる。
一度悪いサイクルに入ってしまうと、悪いことが続くものです。ここぞとばかりに同業者からの邪魔が入りました。少々横着な経営をしていましたから、悪いものがどんどん出てきます。当時私は、表のお金で十億円程度、裏のお金でその倍以上を持っていました。脱税容疑です。査察に半年以上を費やしました。追徴課税処分を受けましたが、まだその程度では痛くもかゆくもありません。ああ、やられたな、という程度です。
ところが次は労働争議です。今まで黙って付いてきてくれていた社員たちが団結して私に向かってきたのです。これはショックでした。けれども私は争議に参加した社員たちの声に耳を貸そうとはしませんでした。『これは私の会社だ! すべては社長の私が決めることだ、聞けないやつは辞めてしまえ! 誰から給料をもらっていると思っているんだ』
そうなんです。かつて私が味わった嫌な思いを、自分の会社の社員たちに味合わせてしまったのです。そうはありたくないと心に誓ったずなのに、暴言を吐いてしまったのです。私ひとりの会社ではないのに、社員皆の会社であるはずなのに、私は完全に私物化してしまっていたのです。
争議が長引き、商品は売れるのに物が作れない状況ですからこれは厳しかったです。会社の前にバリケードが張られて、一触即発の状況です。結局この事態の解決には何週間もかかりました。そんな状態をずっと続けるわけにもいきませんから、私も譲るところは譲って、徹夜での話し合いを何度も行って、なんとか事態を収拾しました。
安心している間もなく、今度は新しく建てた工場が火事で全焼です。社員がまたやる気を取り戻しはじめてくれていた時期でしたから、あらゆる面でこれは痛かった。原因は、社員のタバコの火の不始末です。竣工式の前でしたから、まだ保険を掛けていなかったのです。何億円という投資が一瞬にしてすべてパアです。それに重ねて取引先の不渡り。
最後のとどめは、昭和四十八年のオイルショックです。もうどうしようもない状況です。泣きっ面に蜂とはこういうことを言うんでしょうね。何をやってもうまくいかない。逆にどんどん悪くなるというサイクルに入っていました。洗濯機には石油を利用した部品もたくさん採用していますから、原油価格の上昇とともに製品の原価がどんどん上がってしまいます。それだけならまだいいのですが、部品自体供給不足ですから、大手企業に全部押さえられてしまって中小企業には部品がまわってきません。完成品が作れないのです。
こうなると資金繰りもそう長くは続きません。今まで業績が良かったときには、借りてくれ借りてくれと言ってきていた銀行も、業績が悪くなりはじめたと知ると手のひらを返したように知らん顔です。あっという間に行き詰ってしまいました。
あらゆる銀行に借り入れのお願いに行きましたが、どこもお金を貸してはくれません。貸してくれるどころか逆に今まで貸していたお金を早く返してくれと言うのです。返却期日はまだ先なのにです。眠れない日が続きました。社員に支払う給料も遅滞しはじめました。すると、社員たちも再び怒り出します。人が変わったように皆で私を睨んできます。けれどもまた私は、嫌なら辞めろ、私の会社だ、と強く出ていました。
労働争議を解決する際に私は心から反省できていたわけではなかったのです。物を売りたい、会社を大きくしたい、生産をストップさせるわけにはいかない。それらの思いだけで社員と交渉したに過ぎなかったのです。社員たちが求めていたのはそんなうわべだけの解決ではなかったのです。
社員に対して強気に出ていた私でしたが、実際のところはものすごく不安でした。今まで黙って私に付いてきてくれていた社員を路頭に迷わせてしまうかも知れないということがとても恐ろしかったのです。
それまで使い方に困るぐらいお金を手にしていましたから、何も怖いものなどありませんでした。命も惜しくないという気持ちもありました。けれども、いざお金がなくなるとなると、これほど恐ろしいものはない。お金はとても怖いです。お金がなくなってしまうことは、私にとっては死ぬことよりも怖いかも知れません。
資金繰りのために、可能性のある相手の所に何度も足を運びました。特に会社設立の際に支援してくださった吉田政二郎さんのところへは、何度も何度も足を運びました。けれどもいい返事はいただけませんでした。逆に何時間も説教のような話を聞かされるのです。歴史上の人物の生き様を例えに出して、いろいろと説教するのです。私が欲しいのは金なんです。今日の金、明日の金、会社を維持するための金なんです。
何度目かの説教を聞かされた帰り道、私はふと我を失う瞬間があって、踏み切りの真ん中で車を止めて放心状態になりました。資金繰りに行き詰って会社を倒産させてしまうことよりも自分が死んだほうが楽だという気持ちになったのです。何か肩の荷が下りて気分も楽になった気がしたのです。
電車はしばらく来ませんでした。誰もいないはずなのに、いろんな声がどこからか聞こえてくるのです。風景もスローモーションに見えるのです。
車を急発進させた直後、私の後ろを電車が警笛を鳴らして通過しました。何か見えない不思議な力で私は動かされました。私はアクセルを目一杯踏んでいました。と同時に、私の頭の中には、私が死ねばその保険金で社員を救えるかも知れないという考えが浮かんでいました。
私が死ねば全社員に給料と退職金を支払えるだけの保険金が支払われるのかどうかをまず調べよう。私は自宅に戻りました。経理業務の一部は妻に任せていましたから、私は保険証書がどこにあるかはわかりません。まさか私が死ねばいくら支払われるんだ、などと聞くわけにもいきません。
探しても見つからないから、何気に『預金通帳とか保険証書はどこにしまっていたかな』と妻に聞きました。すると妻は、『あなた。馬鹿な考えはよしてね。保険は昨日、私がすべて解約してきたから』と答えるのです。それを聞いて私は怒り狂いました。『なんてことしてくれるんだ! 最後の頼みの綱を自ら断ち切るなんてどういうことだ、お前たちのことを思っているんだぞ、どうしてくれるんだ』と私は怒り叫びました。そして私は力なくしゃがみこんでしまいました。妻は泣いていました。妻は私の不審な行動、何を考えているのかに気付いていたんでしょうね。それまでも陰ながらいつも私を支えてくれていましたから。
一時間以上の沈黙のあと、妻は私にこう言いました。
『何か失ったとしても、幸せという財産だけはあるじゃないですか。この先もしっかりと頑張れば、心の再起は心の幸せにつながるんじゃないですか』
私は妻のその言葉を聞いて、その落ち着いた目を見て、覚悟を決めました。
『朝子。家にあるものすべてを処分して、いくら借りれるかわからないけれども、俺は朝子といっしょに裸一つからやりなおしたいと思う。付いてきてくれるか』
妻は黙ったまましっかりと頷いて、そして押入れから着物や貴金属などを出してきて、居間のテーブルの上に並べはじめました。
言葉なく手を握り合ったまま、私たちは次の朝を迎えました。久しぶりに感じたすがすがしい朝でした。
私は十数名の幹部社員を集めて自分の決意を話しました。不安で辛い目に遭わせてしまってすまない、という話からはじめました。皆真剣な目で私の話を聞いてくれました。何時間も真剣に話した後、もう少し私に付いてきてくれる方がいたら、血判状に押してほしいと私はお願いしました。すると、誰ひとり欠くことなく全員が血判状に拇印を押してくれました。一人ひとりと固い握手を交わして、この先の頑張りを約束して……。そのときの血判状は、今もここに大切に持っています。
私は妻が用意した貴金属類と血判状とを持って、再び資金支援のお願いに出かけました。たとえ玄関先で断られても私は帰るつもりはありませんでした。それほどの覚悟です。すると、どうしたことか血判状のことなど話す前から快い返事をしてくれるのです。説教ばかりしていた吉田政二郎さんがすんなりとお金を出してくれたのです。次に訪問した先も、その次もです。魔法を掛けられたような気がしました。
私はその朗報を持って会社に戻りました。皆の顔は、とても真剣でした。給料の支払いも会社が立ち直ってからでいい、と言ってくる社員もいました。社員の団結力は順調なときよりもむしろ増していたと思います。
このような大きな失敗をすると、素直に周りの声を聞けるようになります。忠告してくれた社員は、私が失敗した原因について説明してくれました。それを聞いて私は思わず、『だったらどうしてはじめからそう言って止めてくれなかったんだ!』と言いました。するとその社員は、『止めましたよ。でも、社長はそんな話一切聞こうとしなかった。本気で止めようとしたら殺されるかクビにされるかという横暴さだった』と言うのです。お金を貸して下さった方にも後にこう言われました。『あんたの横柄な態度を見ていると、金を貸す気になどなれなかった。それが最後に来たときの顔は違っていた。この男になら貸すだけの価値があると思った』と。自分を過信すると周りが見えなくなってしまうのですね。これは、その後の経営をいい方向に向けるとてもいい経験になりました。
会社経営とは、つまり社員の信頼をいかにつなぐかにあるのだと思います。会社が大きくなってくると、それまで同志的結合で結ばれていた社員たちも安定を求めて会社に入ってくるようになります。そのような社員を迎え入れても、なお今までのように同じ目線で、本音で話し理解し合える関係を築くことができるかどうかということが大切なのだと思います。『俺はできる』という自信は素晴らしいと思います。その自信があったからこそ、こうして困難を乗り越え、将来を切り拓くことができたのも確かです。けれども、その自信はときに『俺はえらいのだ』という慢心に変わってしまうことがあるのです。
企業家にとって不可欠な要素のひとつに『自制心』というものがあると思います。企業家というのは周りをグイグイ引っ張っていくパワーを持っていますから、自制できなかったとしたら、それは恐ろしい結果になります。周りには止めてくれる人はなかなかいません。ましてや社員たちは自分の立場というものがありますから、社長に噛み付いてでも止めてくれるなどということは期待できないのです。
欲に溺れると人間は堕落への道を辿ります。これは今も昔も変わらないと思います。酒、女、ギャンブルに溺れて人生を台無しにしてしまった人たちの話はいくらでもあります。特に企業家レベルのパワーを持った人たちの溺れ方は半端じゃないですから、取り返しのつかない事件にまで発展してしまうことだってあります。
何事に対しても溺れるということは避けなければなりませんが、それを実行するには並々ならぬ意志の力が必要なのです。一時の決意は簡単です。難しいのは、その決意を持続することなのです。
私は以前、自分の自制心を試すためにある実験をしたことがありました。今はタバコを吸わなくなりましたが、三十代の半ばまでは超のつくヘビースモーカーでした。一日に三箱、六十本以上吸っていましたから相当なものです。お酒も好きで、これも半端じゃなかったのですが、どちらを断つのが難しいかというとタバコのほうです。禁煙するぞ、と決意したその日はいいです。けれども、次の日になると、無意識のうちにタバコに手が伸びて火をつけているのです。自分の意志力の弱さに何度も呆れました。目の前からシガレットケースを隠し去っても、気が付けば別の引き出しからタバコを取り出して無意識のうちに吸っているのです。意識できているうちはいいのですが、仕事に集中しているとその決意はどこかに隠れてしまうのです。意識しなくても持続できるぐらいの強い意志がないと自制できないのです。
目の前に張り紙をしてみたり、罰金を科してみたり、色々試してみましたがどれも効果は薄かったです。
失敗を何度か繰り返して、いろいろと工夫してようやくタバコを断つことに成功して、それから丸一年間タバコに手を伸ばすことなく禁煙を継続しました。
タバコを止めるということ自体は自制心のレベルを試す目的で実行していましたから、一年間という目標をクリアしてからは再びバンバン吸いました。
企業家という者はいざというときに自分はどれだけ自制できるのかを知っておく必要があると思います。それさえ確認できれば、あとは好きなことをすればいいのです。大切なのは、自分に課したルールに背かないということです。失敗というのはたいてい、自分に課したルールを破ってしまったときか、ルールそのものを持ち合わせていなかったときに起こるのです。外部環境は刻々と変化していますから、ルール自体もそれに合わせて変化させなければいけません。破ってから都合がいいようにルールを変えるのではなく、環境に適したルールを設定してその中で強い意志を持って戦略的に進んでいく。それが成功の秘訣だと思います。自制できるかどうかで企業家として大成できるかどうか、企業家として生きていけるかどうかが決まるのだと思います。
私はいろいろな経験を通してそのような思いにたどり着くことができました。問題が発生した後は、私も心を正して社員の声にできる限り耳を傾けるようになりました。社員に一杯飲ませながら『何か困っていることはないか』と聞くのです。社員たちはアルコールが入ると物怖じせずに、あれこれと私に話してくれます。その話を私はアルコールを口にせずにしらふで真剣に聞くのです。今でこそ社員との会食の席は減ってしまいましたが、これからも社員の声を大切にしていかないといけないと思っています。
その後もいろいろなことがありましたが、周りの方々にこうして支えられて今のアランドリーがあるのです。企業の周期は三十年といいます。歴史は繰り返すとも言われています。創業してから三十年はクリアしましたが、この先も気を引き締めていかないといけないな、と考えています。
一九八〇年代に日本はバブル期を迎えました。その時期に本業を忘れて土地や株に手を広げていた企業は、今大変なことになっています。ここ数年の間にもずいぶん多くの会社が倒産しました。皆さんの周りでも倒産した会社があったと思います。首を吊った経営者も大勢います。私の知り合いの中にもいました。夜逃げさながらで音信普通になった経営者も何人もいます。
私は幸いにしてバブルの前にずいぶん痛い目に遭っていましたし、バブルもいずれは弾けるだろうと読んでいましたから、その時期は本業に専念することができました。もし、以前の失敗がなかったとしたら、私の性格からして取り返しのつかない大きな借金を抱えることになって、それこそ首を吊っていただろうと思います。
本業でないところで大きなお金を手にすると本業が鈍ります。本来持っていた夢の実現が遠のくのです。私は、平成六年に製造工場を大阪から新潟に移しましたが、これは故郷に恩返しがしたいと以前から抱いていた夢の実現でした。瓢湖のある水原町での工業用地の確保は難しかったので、新潟市の外れに工場を建てました。そこの近くにも冬になると白鳥が飛来する有名な湿地があります。ラムサール条約に指定されている佐潟という湿地です。そこにいくと瓢湖を思い出して心が和みます。ただ、この新潟工場の竣工式を前にして、母が他界してしまったのは、とても心残りです。私がもう少し真面目で謙虚だったとしたら、故郷にもう少し早く工場を建てることができて親孝行ができたのにと残念に思います。
自分を超えるお金を手にすると、人間はコントロールを失います。本業で手にしたお金ですらそうだったのですから、それ以外で手にしたお金の場合はなおさらです。運を味方につけて手に入れたお金というのは、努力で得たお金とは違う力を持っているのです。皆さんも少なからず体験されたことがあるんじゃないでしょうか。お金は怖い。この一言に尽きると思います。
新潟に工場を移した次は、中国上海工場の設立です。既に準備を開始しています。まだ本格稼動は先ですが、将来的には中国で半製品まで組み立てて、最終組み立てと最終検査を新潟工場で行ってメイドインジャパン製品として市場に送り出すビジネスモデルを採りたいと考えています。そうして価格競争に負けない強い会社にしていきたいと考えています。
皆さんもご存知の通り、バブル崩壊以降、産業構造は著しく変化しています。二十一世紀はいろんな意味で仕組みが変わってきます。流動的な時代ですから、経営者がその変化にどれだけ対応できるかが重要になってくると思います。特に技術面での変化が激しい。情報技術やバイオ技術、今までの常識が通用しないような、想像もしなかったような内容で、目覚しい速度で発展していくでしょう。さらに考え方の変化も大きい。物が売れた時代から情報・知恵が売れる時代へと確実に変化しています。知的財産というものが時代の鍵を握るでしょうし、知的財産をおろそかにすると、中小企業はつぶれることだってあるでしょう。けれども、こっちが知的財産を手にすると金になる。そういう時代なのです。そういった変化に対応できるか否かで、落ちこぼれていく経営者も出てくるだろうと思います。
バブルのときは大企業も金儲けだけに走って、人間性、モラルといったものが無視されました。そのひずみが今も続いています。内面的なバブルの後遺症ともいえるでしょうか。これから時間をかけて、悪い面を正し、ちゃんとした価値観をしっかり若い社員に伝えて正しい活性化をしていかないといけないと思います。
私を含め優誠経営塾の塾生の皆様で力を合わせて、地道な努力でこの先の日本をよくしていきたいと願っています。それが私たちに託された使命なのだと考えています。ご清聴ありがとうございました」
満場の拍手が長く続いて、テープは終わった。
はじめソファで横になって聴いていた店町は、いつのまにか背筋を正して座っていた。宗像の講演の内容は、店町にとってあまりに衝撃的だった。今の自分と同じ年齢のときに宗像は会社を起こして何百人もの社員を動かしていた。何億円というお金を稼いでいた。時代が違うにしろ、今の自分との差はあまりに大きい。店町の気持ちは驚きと感動に震え高ぶっていた。じっとしていられなくて、店町は部屋の中を何の目的もなく歩きまわった。
店町は、もう一度テープをはじめから聴きなおした。宗像の言葉一つひとつを味わうように真剣に聴いた。テープの返却は、次に会うときでいいと言った刈谷の言葉の意味がわかった気がした。
翌朝、店町は刈谷に電話を入れた。
「ああ、店町さん。電話があると思ってましたよ。テープ、聴きましたね」
「はい、何度も聴きました。宗像社長のもとで是非働かせていただきたいと考えています」
店町の口からストレートな言葉が出た。素直な気持ちだった。
母のためにという思いからはじまった社会貢献心、使命感に燃える宗像の生き方に、店町は感動していた。
店町に対する内定はすぐに出た。春先に確定していた内定者と合わせて、この年のアランドリー本社の内定者の数は十一名となった。
店町は内定を得たという事実をしばらく誰にも話さなかった。約束された研究者の道を捨て、名も知れない中小企業で自分を試してみたい、などと言い出したら、周囲はきっとばかばかしいとあきれるに決まっている。店町はそう考えたからである。店町は打ち明けるタイミングと周りを説得するための理由を探した。
自分が今まで進めてきた研究は基礎医学の一部だから、宗像社長が描く予防医学を実現する洗濯機開発に活かせるかも知れない。細菌をいかにして増殖させるかというノウハウは、病原菌をいかにすれば死滅させることができるか、ということにもつながる。たどり着いた答えはそれだった。ただ、それは周囲への言い訳でしかなかった。宗像のもとで働き、心を高め、何か大きな目標に挑戦していけるのであれば、仕事内容などどうでも良かった。宗像というひとりの男に惹かれ、その男が語る夢に惹かれたのである。
「あなた、馬鹿じゃないの」
最初に打ち明けた直子は呆れた顔をした。三年付き合っている彼女は学部卒業後、自分の父が経営する岡山の製薬会社に就職して働いている。大阪と岡山は新幹線で一時間の距離であったが、お互い忙しく、実際に会うのは一、二ヶ月に一回程度になっていた。気心が知れた仲だったから、そのような状態でも二人は長く続いていた。
店町の決意を聞いた彼女は不服そうな顔で岡山に帰っていった。それでいて、後に届いたメールには、『男らしい決断ね。見なおしたわ』と書かれていた。彼女の性格からして皮肉とも取れなくはない表現だった。
「おまえ、正気か」
他の反応も、やはり冷ややかだった。けれども、同期生たちの反応も所詮は他人事で、呆れた顔をしてはみるものの、競争から脱落したライバルを表向きに気の毒がっているだけで、しばらくするとその表情は嘲笑の笑みに変わっていた。
「今まで何のために大学院まで行かせたと思っているの。私許しませんからね、今週帰ってきなさい」
母親の反応は店町が想像していた通りだった。店町は、実家へは帰らなかった。店町にとって母親の意見はそれまで絶大な影響力を持っていた。母は、息子が大学教授を目指すか安定した大企業に就職することを強く望んでいた。息子は当然そうするものだと決め付けていた。店町はその期待を裏切った。店町の母は事件の一部始終を新聞やテレビで目にしていたが、その事件が息子にどう影響を与えているかなど、まったく知る由もなく、また知ろうともしなかった。
佐藤が起訴事実を認め、懲役二年、執行猶予三年の判決が出たとき、店町は修了単位を満たすためだけの形式的な実験を進めていた。以前のように縛られた感覚はなく、追い込まれた感覚もなかった。店町がかつて感じていた緊張感は、自らの中に生じていたものではなく、周囲からかけられた過剰な期待によるものだったのかも知れない。店町は冷静な目で正しくそう感じるようになっていた。
