『風に向かって飛び立つ白鳥のように』|第三部 追い風の中の亀裂

第17章 ブレーキを掛けたい

2005年原稿・Web版 全24章

店町が入社して二年目の年が明けた。二〇〇一年である。その年も前年と同様、金融機関まわりから店町の仕事ははじまった。

二月になって間もないある日、店町は北野と佳音との三人で昼食に出かけた。店町と佳音が付き合っていることを知らない北野は、店町の隣に座った。そして佳音は店町の前に座った。

日替わりランチを待つ間、三人はたわいもない話をした。テーブルの下で店町は佳音のつま先を軽くこついた。すると佳音も返した。店町が佳音の靴先をつま先で挟んで離さないでいると、佳音は困った顔をした。

「佳音さん、どうかした?」北野が聞いた。

「いえ、ちょっと思い出し笑い」

「えっ、何思い出したの?」店町がわざと聞くと、佳音が店町のつま先を踏んだ。

「そういえば北野さん。最近、社長室にお茶を出すとき、社長の視線が怪しくありません?」

「え? 社長の視線? そうかなぁ、別に気になったことないけど」

「佳音さんの考えすぎじゃない」

会社のメンバーと一緒のときは、店町は佳音のことを今まで通り佳音さんと呼ぶようにしている。

「社長室の扉の横に大きな鏡があるでしょ。私が社長に書類を渡して部屋を出て行こうとすると、後ろから視線を感じるんですよ。鏡をチラッと見たらね、社長が私のほうを、じーっと見てるんですよ、すっごくじぃーっと。もう私、怖かったですよ。それに書類を手渡そうとしたら、わざと私のほうに近づいて来て手を触ろうとするし」

「そうなの? ちょっと気を付けたほうがいいかもね。社長室に入るときにはドアを開けっ放しにしとくとかしたらどうかな。私が代わりに書類を持っていってもいいしね」

昼食を終えて三人で会社に戻ると、ビルの前に和服の若い女性が立っていた。店町がどこかで見覚えのある顔だった。控えめに立つその女性は、神妙な面持ちをしている。

「お約束か何か……?」店町が聞くと、その女性は「宗像社長がお戻りになられたら、少しお時間をいただきたくて」と小さな声で言った。

佳音と北野は先に社内に戻った。

しばらくして、宗像が角を曲がって食事から戻ってくるのが見えた。

「社長、お客様がビルの前でお待ちですが。あちらの女性の方です」

宗像が視線を向けると、その女性は控えめに会釈した。宗像はその女性が誰であるのかすぐ気付いたようである。

「店町君。しばらくしてから会社に戻るから、よろしく頼むよ。午後は特に予定は何も入って無かったよねえ」

宗像はそう言い残して女性と近くの喫茶店に入っていった。

今日の午前中、社長が部屋を空けているときにリンリン電話をしつこく鳴らしていたのは、もしかしたら彼女だったのだろうか、と店町は想像した。

「あれ? 社長は?」

「いや、ちょっと急用で外出されました」

「もしかして、さっきの女の人と?」

店町は北野のほうを見て目で頷いた。

「しばらくしたら戻られると思います……」

そう話しながら、店町は思い出した。あの女性は工場見学の際にいた小学校の先生に似ている。写真に写っていた先生に違いない。髪をアップにしていたため雰囲気は違ったが、確かにそうだ。

そのまま宗像は夜遅くまで戻ってこなかった。佳音の件といい、和服の女性といい、宗像の不可解な行動が店町の目に付くようになっていた。

宗像が確実に暴走しはじめている。それを決定付ける事件が発生した。

新潟工場で組立てラインの責任者が、自動運転のフォークリフトと壁の間に誤って挟まれるという事故が起こったのである。運悪く彼は頭を打ち、意識を失って事故現場にしばらく倒れていた。事故の瞬間を目撃したものが誰もいなかったため発見が少し遅れた。壁際に彼が倒れているのを最初に見つけたのは修理部門に所属する年配の男性社員だった。

連絡を受けた宗像の対応は早かった。アメリカ出張中だった取締役をすぐに帰国させ、できるだけ早く全役員を入院先の病院に駆けつけさせたのである。家族が見守る中、ライン責任者の意識が戻った。宗像は家族に対して手厚い保障を申し出た。それが過剰なまでの手厚い内容だったのである。

宗像は過去の労働争議の経験から、労働組合や労働基準監督というものを極端に嫌っていた。労災で訴えられるようなことがあれば、会社の信用は一気に悪くなる。一度失った信用は取り戻すのに数倍の時間と労力が必要となる。宗像はそのことを恐れていた。

社内では社員からのカンパ活動がはじまった。宗像の呼びかけで総務部長が動いたのだった。すると他の社員から不満の声があがった。

「私が怪我で入院していたときなんて、ほったらかしだったのに、これはどういうこと? 店町さん、おかしいと思いません? 彼は現場責任者で、私はただの平社員だから?」

宗像の言動は店町の目に明らかに疑問に映りはじめていた。会社の業績がよくなり周りから注目されるようになってから、宗像は少しコントロールを失っている。

店町は宗像の側近として、尊敬する宗像のため、誇りに思う会社のために、自分の気持ちを宗像に伝えて何とかブレーキを掛けたいと思うようになっていた。出張が続き時間の取れない宗像とゆっくり話をする機会は移動中の電車の中しかない。店町は宗像が新潟工場に出張する日を狙って、自分の思いを伝えようと決心した。

白鳥号の切符を手渡す際、店町は宗像にこう言った。

「社長、少しお話があります」

「なんだね。もう少ししたら出張に出かけるから、手短に頼むよ」

「私、実は会社を辞めたいと考えています」

これは店町の正直な気持ちではなかった。このまま暴走し続ける社長のもとでは、もう私、続けていく自信がありません。それがそのとき店町が伝えたかった正直な気持だった。けれども、宗像を目の前にした店町は、言葉足らずで遠まわしにしか表現できなくなってしまったのである。何とか自分の訴えで、社長に気付いてほしい。そういう気持ちから出た一言だった。

「私、実は政治家になりたいのです」

また意味不明な言葉が店町の口をついて出た。

宗像はまったく驚かなかった。

「店町君は、入社してからどれぐらいだったかな」

「もうすぐ二年になります」

「そうか。皆今の店町君ぐらいの時期になると、そういうことで悩みはじめるんだよ。会社を辞めたくなるんだよ。でも、この時期にもう少し辛抱して頑張るかどうかで、これからの人生が決まるのですよ。簡単に投げたしたら駄目ですよ。店町君が将来研究開発部門で頑張りたいと願っているのも覚えてますよ。けれども人生長いんだから、近道をしようとしては駄目ですよ」

宗像はかつてよく見せた温かい表情で店町に話した。店町は本心を伝えるタイミングを失ってしまった。

「もうそろそろ出張に出ないといけないから。店町君、私の留守の間、本社を頼むよ」

「実は私、もう少し社長とお話したいと考えて、特急白鳥号の切符を自分の分も買っておきました。自由席ですが」

店町は敦賀駅までの乗車券を内ポケットから取り出して宗像に控えめに見せた。

「そうか。それじゃ、続きは電車の中で話そう、せっかくの機会だから」

グリーン車の切符を手にする宗像も、店町に合わせて自由席車両に乗った。宗像は人を安心させる話術に長けている。宗像の隣で話を聞いていると、店町は不思議と穏やかな心持ちになるのだった。

宗像は自分の経験話を交えて若いうちにすべきことについて店町に話し聞かせた。

店町は敦賀駅までの乗車券しか持っていなかったが、景色は既に福井駅に近づいていた。出発してから既に一時間半近くが経過している。

自分なりの警告をしようと飛び乗った白鳥号であったが、気付けば店町は何も伝えることができないまま電車を降りていた。

福井駅で店町が降りると、宗像も続いて降りた。

「もし君が将来夢を実現して政治家になったら、世の中の役に立つ大きな仕事をしてほしい。アランドリーで私から学んだことを世の中に活かしてほしい。お願いするよ。でも今は、目の前の仕事こそすべてですよ。そう思い込むことですよ。目の前の仕事こそ天命と思いなさい」

そう言って宗像は店町に握手を求めた。入社式の日に宗像と交わした握手のことを思い出して、店町はその手を強く握り返した。

グリーン車両に向かう宗像の後姿を見送りながら、店町はいつもより深く頭を下げた。発車合図を聞いて頭を上げると、宗像は半身乗り込みながら店町のほうを振り向いて右手を軽くあげた。

店町の中には、何かしらすっきりしない気持ちが残っていたが、もう少し宗像社長のもとで頑張ってみよう、店町はそう思うことにした。

店町は反対側のホームへと階段を上った。売店で駅弁とお土産を買って、帰りの電車の到着を待った。

店町は普通電車に乗った。車両は三両編成で車内に乗客はほとんどなかった。

周囲の風景を見る余裕なく来てしまった福井駅であったが、帰りの列車では、トンネルの合間に見える景色はゆっくりと動き、車窓の枠にひじをかけ、ガラス窓に顔を近づけて景色を眺める店町の気持ちは落ち着いていた。

駅弁を広げると、車内にカニの香りが広がった。

列車は敦賀駅に近づいて、車内に放送が流れた。その放送は、特急電車の通過待ちのため敦賀駅で十分間停車すると案内していた。冬期はドアの開閉は手動になっている。店町は駅弁の空箱を持って、重いドアを開けてホームに降りた。冷たい風が吹いていた。店町はコートに肩をすくめてしばらくホームを歩いた。

発車を知らせるベルの音を聞いて店町は車内に戻った。

宗像は九両編成の白鳥号で新潟に向かっている。店町は普通列車で大阪に戻ろうとしている。宗像との距離の広がりが、店町の心の糸に緊張と緩和を繰り返させていた。店町を乗せた電車は、その先も小さな駅すべてに停車した。特急列車が停車する駅以外、店町がはじめて目にする駅名ばかりだった。山の間を通り、トンネルを抜けて滋賀県に入ると左手に平野が広がった。さらに進むと遠くに琵琶湖が見えた。店町は左側の席へと移動した。

一段高い場所を農道と平行して走る列車の窓から、店町は琵琶湖を眺めていた。『マキノ』というカタカナの駅からは、点在する別荘が琵琶湖畔に見えていた。

琵琶湖に浮かぶ小さな島が見ている。次の駅で降りてみよう。店町はふとそういう衝動にかられた。

電車は速度を緩めて次の駅に停車した。

店町以外に降りる人はなかった。乗車する客は老夫婦一組だけである。駅名の看板には『近江中庄 Omi-Nakasho』とあった。

山手には田舎作りの瓦屋根の農家が点在している。反対側には、少し見下ろすように田園風景が広がっていた。その水田の間を少し湾曲して琵琶湖まで伸びる道が見えていた。

湖畔までは歩いて十五分程度だろうか……。

ホームには小さな待合室が設けられていた。ベンチには真新しい手作りの座布団が敷かれている。

階段を下りていくと、出口のところに『ようこそマキノ町へ』という看板が掲げられていた。その下に乗車証明書を発行する機械が設置されていた。無人駅のようである。新潟工場の最寄の駅『越後赤塚駅』と同じように、そこに券売機はなかった。

琵琶湖まで伸びる道の片側には、百日紅の木が等間隔に植えられていた。

湖周道路を横切り浜の入り口に着くと、そこには『中庄浜 国定公園』と書かれた看板と、『中部北陸自然歩道』という木の看板が立っていた。そこには、『この歩道は新潟県の山北町から滋賀県の大津市までの美しい自然や文化財を結ぶ延長四〇〇〇キロメートルの道です。』と紹介されている。

新潟から遠く離れた土地で、新潟県という文字を目にした店町は、不思議な感覚を抱いた。はじめて来たこの場所は一本の自然歩道で新潟県とつながっている。

湖面にはルアーフィッシングをしているボートが二艇浮かんでいた。

しばらくするとそのボートは、エンジンの音を上げて対岸のほうへと走り去っていった。

店町の左手には、琵琶湖最北端の海津大崎の岬が見えている。店町の居る場所とその岬の突端とのほぼ二倍の距離の沖合いに、亀が湖面に伏したような姿の竹生島が見えていた。湖の遠方に見える島や山手に広がる田園風景は店町に入社式の朝を思い起こさせた。期待に胸膨らませたあの日から二年近く経過している。

周囲二キロメートルの竹生島は、中庄浜から九キロメートル離れたところに見えている。周囲二〇〇キロメートルの佐渡島は、新潟の四ツ郷屋浜から四十キロメートル遠方に見えていた。風の強い日本海の松の木は規則正しく傾いて立っていたが、琵琶湖畔の松の木は自由な方向に枝を伸ばして立っていた。

「お仕事ですか」

大型犬を散歩していた五十代と見える男性が店町に近づいてきた。

「ええ、まぁ。休憩中といいますか、出張帰りといいますか」

「どちらまで」

「福井県のほうです」

店町は手に持っている羽二重餅の土産袋を軽く持ち上げて、その男性に示した。

「前にも、そういう方がいましたよ。ここの駅、無人駅でしょう。だから北陸の出張帰りにこの駅で降りて景色を眺めるんだってその方も言ってましたね。このあたりではスーツ姿の方をほとんど見かけませんから」

「無人駅って今でもあるんですね」

「最近はこのあたりもずいぶん開拓されて別荘がたくさん立つようになっていますけどね、私がこちらに移り住んできたときには人もほとんどいませんでしたからね」

男性はしゃがんで犬の首輪をはずし、手に持っていたボールを勢いよく投げた。

ジョンと呼ばれたその犬はボールめがけて勢いよく駆け出した。

「琵琶湖の北のほうの水はきれいですね。景色ものんびりしていて、日ごろのストレスが解消されますね」

「おたくはどちらから? 京都あたりからですか?」

「いえ、大阪からです」

「そうですか。私も大阪へはたまに行きますけど、大阪とここじゃぜんぜん違いますね」

犬はボールをくわえて男性のもとへと帰ってきた。

「そらっ」

犬は休む間なく再び走ってボールを追いかけた。

「この時間になるとこの子を散歩につれて出るのが私の日課でしてね」

「ゴールデンレトリーバーでしたっけ」

「そう。生まれたばかりのときから飼っているんですけどね。どんどん大きくなって、今では私しか散歩に連れ出せなくてね」

「走りも力強いですね」

「どうです。うち、すぐそこで寿司屋をやっているので、ちょっと寄っていきませんか」

「いえ、私、まだ仕事中なんで」

「そうですか。大変ですね」

店町は藤棚の下のベンチにしばらく腰を下ろして犬と男性を見ていた。

少し吹いていた風はおさまり、湖面は静かに凪いでいた。竹生島から今津港に向けて定期観光船が出港したのが遠くに小さく見えた。店町は新潟工場の研修に素直な気持ちで取り組んだ頃のことを懐かしく思い返していた。佐渡島とはずいぶん規模は違ったが、穏やかな水面の向こうに浮かぶ竹生島を店町は記憶に重ねて眺めていた。

無人駅に止まる列車の数は極端に少ない。店町は近江中庄駅に戻ることにした。犬を散歩していた男性が店町に手を振った。

山の中腹に鉄塔が小さく見えている。山頂付近に何か施設があるらしく、建物がいくつか目に付いた。周囲に見渡す山々は、大阪で普段目にする風景とずいぶん違っている。薄暗く暮れゆく夕刻に吸い込まれるように、店町を乗せた列車は大阪へと進んだ。そろそろ宗像を乗せた白鳥号が新潟駅に着く頃である。店町は宗像が工場に到着する時刻を見計らって電話を入れた。

店町の言葉に宗像は明るい声を返した。

— 第17章 終 —