第11章 宗像の背中、瓢湖の白鳥
宗像は、店町が入社する半年ほど前に董という海外事業部の男性課長を上海工場設立準備のために現地に送り込んでいた。
董は上海交通大学を卒業後、日本の大学で経済学と日本の文化について学んでいた。日本の伝統文化をテーマとしたあるフォーラムで宗像の目に留まったのがアランドリー入社のきっかけだった。董には日本の文化に心得があったため、宗像からの信頼も厚かった。四十前の狐目の男である。
上海工場は、統括責任者として宗像が董事長と総経理を兼務し、その下で董が副総経理として現地での指揮を執るという構図で準備が進められていた。
工場の完成が近づいて、作業員を採用する際には董が力を発揮した。人脈を大切にする中国で従業員を集めることは董にとっては容易なことだった。それでもなお、慎重を極める宗像は、グループリーダー以下の採用であっても、時間の都合さえつけば面接に同席するという徹底振りだった。工場をすべて任せるという約束のもとに引き受けた董にとっては、これが面白くなかった。自分に人事権があるようで、実はそうではなく、給与の決定もすべて日本の宗像が行うという親会社主導のスタイルがなかなか覆せなかったのである。董はそこをぐっと我慢して、宗像の経営手法に従っていた。
宗像は安い投資で最大限の労力を引き出すことに関して抜群の感性を持っている。時代の潮流を先読みして年俸制をいち早く導入し、従業員の給与を抑えに抑えた。一時的に業績が向上しようともけっして決算賞与を出さない。いつ何時訪れるか知れない危機に常に備えていた。それでいて社員から不満の声が上がらないのも、すべては宗像の人を惹きつける魅力とカリスマ性によるものだった。物が不足し、物なら何でもが売れた昭和二十年代に新潟の田舎で幼少時代を過ごし、数や量が重視された三十年代後半に都会に出て働きはじめ、独立し、そして良い悪いが品質で選ばれた昭和五十年代に会社存亡の危機を乗り越えた。時代は平成に変わって、消費者が物をセンスで選ぶ時代を迎えた。
宗像は変化にとんだこれらの時代を持ち前のパワーと柔軟さで器用に生き抜いてきた。また、その生き抜くすべを知っていた。生産工場の中国進出も、これからの時代を見越した重要戦略のひとつに位置づけていた。
宗像はアランドリーの幹部候補として期待を掛けた店町を、まだ設立準備段階の上海工場に同行させた。
虹橋空港は上海の中心地から比較的近い便利な場所にあった。空港から上海工場までは自動車で十数分の距離である。店町が宗像の後ろに続いてゲートを出ると、董副総経理が迎えに来ていた。彼は宗像とひと言ふた言挨拶を交わして、車の止めてある駐車場へと二人を案内した。彼は宗像からあてがわれた役員車に乗っている。中国では最高級車とされている『紅旗』である。
店町がはじめて目にする中国は、恐ろしく近代化が進んでいた。大阪という街が田舎町に思えるほどの衝撃だった。店町の驚いている様子を見た宗像は、工場に立ち寄る前に上海郊外に車を向けるように董に指示した。
風景はがらりと変わった。そこには上海中心地の工業地帯とは明らかに違う田舎町が広がっていた。自動車が走る横で馬が荷台を引いていた。
「店町君。これが今の中国の実態だよ。中心部と郊外ではこれほどにも格差があるんだよ。日本では、まず考えられないでしょう」
田舎家屋の横に三輪自動車が止まっている。その車を見つけた宗像は、少し興奮気味に車に近づいていった。宗像はとても懐かしいものを見つめるような目をしている。
「いゃー懐かしい。懐かしいよ、店町君。この車に似た日本の車にミゼットというのが昔あってねえ、私が会社を起こした頃に製品の配達用のトラックとして利用していた車なんだよ。中国でこんな車見られるなんてねえ、昔を思い出すよ。いゃー、懐かしい」
その後しばらく宗像は、懐かしいという言葉を何度も繰り返した。
上海工場の敷地はとても広かった。建物の外観はほとんど完成していた。工場内部にはいくつかの大型設備が既に導入されていたが、まだまだ準備途上といった感じでがらんとしていた。宗像は設計図面を手に工場内を歩きまわり、導入する装置とライン設置場所について董に細かく指示を出していた。今回の出張では、現地の部品会社への訪問や、作業員の採用面接など忙しく予定が組まれていた。
店町が今回の出張でとても興味深く感じたのは面接を受けに来る作業員たちの転職経歴についてであった。アランドリーが中国工場で採用する作業員の多くは、日系企業の工場で働いた経験を持っていた。中にはアランドリー上海工場(愛藍里有限公司)のすぐ目の前にある工場から転職を希望してくる者もいた。すべては労働条件と給与が転職動機になっていた。それゆえ日系企業が多く進出している上海の中心部では徐々にではあったが、作業員たちの給料は上昇傾向になっていた。他の工場で身につけた経験を武器に少しでも有利な条件の会社に移る。それが目と鼻の先にある会社同士だったとしても気にしないといった考え方が中国流である。
優れた作業員の採用を目論む宗像にとって、このことは短期間に工場を立ち上げるうえで理想的なものだった。今回の出張だけでも十名以上の採用を決めて宗像は店町とともに帰国した。
世間が二〇〇〇年問題で騒がれている中、年が明けた。アランドリーの初出社日は一月五日であるが、金融機関への年始の挨拶まわりを欠かさない宗像は毎年一月四日から出社する。店町は宗像と新任の取締役管理部長を車に乗せて金融機関をいくつもまわった。
中小企業金融公庫に向かう途中、後部座席の二人の会話が店町の耳に入った。
「私はこの年始の金融機関まわりを何十年も続けているのですよ。以前、会社の危機に陥ったとき、銀行からひどい目にあわされましてねえ。それはもう、ひどいもんでした。お金を持っている側の権力というのは凄いです。会社の業績が悪くなった途端に、手のひらを返したように知らん顔ですわ。つい数ヶ月前に豪華な食事を前に笑いあっていた支店長がですよ、急に強気に出てくるんですから。早く金を返せと。そうこうしているうちに、銀行はすぐに支店長が替わるでしょ、恨みをどこにぶつけていいのやら。だから、私は銀行というものを利用はしますが信用していないのです」
店町はルームミラーに映る宗像の顔を見た。宗像がお金の話をするときは、いつも少し怖い顔をしている。それが、菓子折りを手に銀行に入っていくときの顔はすっかり変わる。社長という立場は役者でないと上手くこなせないものなのだろうか。店町はそのような宗像の姿を見て社会の仕組みの理解を深めていったのだった。
店町の新潟工場への出張回数は年明けには十回目を数えた。一年目の冬は大雪にこそ遭遇しなかったが、敷地の隅に除雪された雪山は、出張のたびに段々大きくなっていた。昼間解けた雪が夜のうちに再び凍り、踏みしめると足裏で音を立てて砕けた。朝には防火水槽の水は分厚い氷で覆われていた。
二月の製販会議に訪れた際、店町は週末にひとりで瓢湖を訪問してみることにした。宗像は会議が終わった翌朝に東京へ移動することになっているため、週末を自由に行動する時間ができたのである。宗像が生まれ育った土地を冬の季節に一度見てみたいと考えていた店町にとってちょうどいい機会だった。この時期の瓢湖は一番寒さの厳しい季節である。
瓢湖に白鳥がいるのは夜明け前と夕暮れ時以降であるため、店町は白鳥が湖に戻ってくる夕刻に合わせて見に行くことにした。新潟の街をしばらく散策したあと、店町はバスに乗って瓢湖に向かった。新潟市内では除雪された汚れた雪が道路脇に目に付くだけであったが、街を離れるにしたがって辺りは真っ白な雪景色に変わった。
瓢湖に到着した店町は、湖の周りを少し歩いた。白鳥の姿はほとんど見当たらず、数万羽のカモが湖面を褐色に染めていた。日本海側特有のどんよりとした曇り空の向こうに、頂を雪で白くした五頭連邦と、その先に飯豊連峰の二王子岳がうっすらと見えていた。さすがにこの季節は極寒とあって観光客は少なかった。十名程度のツアー客らしき一組が熱心に湖を見ていた。
町観光協会の担当者が団体の中に立って説明をしている。店町は、こっそりその輪の中に入って説明を聞いた。
「戦後はじめて瓢湖に白鳥が飛来したのは一九五〇年です。当時は食糧難の時期でしたから、野鳥保護の機運も低く密猟も絶えませんでした。五十四年に日本ではじめて人工給餌に成功してから、瓢湖は国の天然記念物となり、現在では世界一の白鳥の過密湖と呼ばれるまでになっています。白鳥たちは冬の訪れを前に、数千キロメートル離れたシベリヤや北極海沿岸から海を渡って来ます。最近では毎年五万羽程度が日本に飛来しますが、そのうち四分の一が新潟県内で過ごしています。ここ瓢湖以外にも新潟県内では佐潟や鳥屋野潟、福島潟といった湿地が白鳥の集まる場所として有名です。瓢湖は現在では七四種類の野鳥が集まる場所となっています」
店町は、説明員の口から『佐潟』という名前が聞けたことをうれしく思った。新潟工場の側にある湿地の名前だったからである。
「あと一時間ほどして日没時刻になると、白鳥たちが一斉に近くの餌場から戻ってきます。それはもう壮観な眺めです。カメラをお持ちの方はしっかりと撮ってください。シャッターを切るのを忘れてしまうような眺めですからね」
辺りが薄暗くなりはじめると、小さな編隊を組んだ白鳥が湖に戻りはじめた。褐色だった湖面は見る見るうちに白く変わっていく。店町が目にしたのは、宗像から聞いて想像していたものよりも、まだ数倍素晴らしい眺めであった。団体の中から感動の声があがった。
やがて湖面が白鳥で白く染まり、日暮れとともに辺りはさらに冷え込んだ。
「店町さんも一緒にバスに乗って帰られたらどうです?」
団体客と少し仲良くなっていた店町に誘いの声がかかった。店町も帰る方向が同じであったため、誘われるまま観光バスに乗った。暖房の利いている車内に入って店町の頬は少しほてった。
観光協会の説明員に見送られるようにしてバスは瓢湖を後にした。バスの中には興奮の余韻が残っている。
しばらくすると、マイクを手にしたバスガイドが前に立った。
「皆様。白鳥の感動的なシーンはいかがでしたでしょうか。辺りはすっかり暗くなりましたから、窓から見える名所の案内というわけには参りませんので、新潟駅に到着するまでのしばらくの間、私から白鳥に関するちょっとしたエピソードをお話させていただきたいと思います。よろしくお付き合いくださいませ」
「よっ、いいねぇ」という掛け声が乗客の中から掛かった。彼は既に缶ビール二本空けているようである。その掛け声にバスガイドは少し照れた顔をした。
「私もこの土地で十数年バスガイドをしておりますが、ずっと白鳥の魅力にとらわれっぱなしです。これまで観光協会の方々から色々と興味深いお話を聞かせていただく機会も多くございました。その中でも、ある写真家の方から伺った話が私の中で一番でした。まずそのお話からさせていただきたいと思います。
その写真家の方というのは、全国各地を飛びまわり何十年も鳥の写真を撮り続けてこられた方なのですが、注意深く鳥を観察していると色々なものが見えてくるとおっしゃっていました。私たち人間は、人とのかかわりの中で生きていますが、白鳥の群れの間にもいくつかの社会ルール、マナーがあるそうです。過密社会ですから、人間と同じでルールがないと社会が成り立たないのですね。たとえば、ある一羽の白鳥が群れを横切るときに、黙って割り込んでいこうとすると、きまって周りから突きまくられるそうです。ところが、『コココ、コココ』と低く物静かに鳴きながら進んでいくと、周りは道を開けてくれます。突きまくられてばかりいる鳥は、少しずつ孤立していき、やがて群れの輪から追い出されるように飛び去り、餓死してしまいます。謙虚な姿勢で挨拶して横切るのは、白鳥たちのマナーのひとつだそうです。
その方はこうもおっしゃっていました。人間社会を見てみると、同じように割り込んでいく人がいたとしても、人間関係やいろいろなしがらみ、立場の違いといったまどろっこしいものがありますから、そんな横柄な人を見かけても、周りの人たちは面と向かって突きまくることができない。どこかいびつな社会に感じますね、と。そのお話を聞いて、私たち人間も白鳥のような謙虚さを心掛けないといけないな、と考えさせられましたね。
また別の方から聞いた話なのですが、心理学の先生をされている方だったと思います。その方がおっしゃるには、白鳥ほど家族の絆が強い鳥は他にいないそうです。夫婦で子供を育て、子が怪我をすれば越冬の季節を過ぎても、親は飛び立つことがないそうです。そのまま子供が回復するまで見守って、最後まで行動をともにするそうです。その話を聞くと、最近人間社会で起こっている数々の事件に心を痛めます。子を見捨てる親、親に暴力を振るう子供。自然界に存在するゆとりが人間社会になくなりつつあるのかも知れないです。そして、その先生は最後にこう話されました。白鳥のつがいは、どちらかが死ぬまでは相手を替えることはない、と。その先生は、離婚を経験されていたのです。ご自分が失敗されたエピソードを交えて話してくださいましたから、今でも私の記憶に印象的に残っています」
バスの乗客たちは皆穏やかな表情でその話を聞いていた。
バスは新潟駅に近づき、乗客たちは身支度をはじめた。
新潟駅で他の観光客と別れ、寝台急行きたぐに号の自由席に乗って大阪に向かった。瓢湖で見た光景、バスの中で聞いた話を思い出しながら、店町は来年もこの季節に瓢湖の白鳥に会いたいと思った。
