『風に向かって飛び立つ白鳥のように』|第二部 社長秘書として

第6章 入社式の日

2005年原稿・Web版 全24章

店町がジョギングから宿に戻ると、同期の新入社員たちがスーツに着替えはじめていた。皆がネクタイの結び方に苦労している中、店町は手際よく器用に結びあげて見せた。学生色の抜けきらない周りと違って、店町だけがどこか違っていた。表情はきりっと引き締まっていて動作も俊敏だった。年齢が二つ上だということもあったが、入社に対する想い入れが店町の場合は周囲とは明らかに違った。

店町たち新入社員十一名は、前日の夕方に飛行機で新潟入りした。空港からはバスと電車を乗り継いで宿に入った。宿の最寄駅は無人駅である。『越後赤塚駅』というその駅名をそれまで誰も知らなかった。駅には清涼飲料水の自動販売機が一台設置してあるだけで、券売機はなく、大き目の時刻表に書かれた電車の到着時刻もまばらだった。駅前にロータリーがあった。その隣に広い駐車場がある。タクシー乗り場はなく、その代わり公衆電話にタクシー会社の連絡先のシールが貼られていた。

駅から『民宿のんき』までは、歩いて五分の距離である。宿の周りには、まばらに住宅がある。そこを少し離れると、周囲一面に田畑が広がった。

近くに国際大学が建設されたということもあって、駅の周辺は宅地開発が盛んになっていた。その工事に携わる作業員たちが連日『民宿のんき』を利用している。日に焼けた作業員たちは、店町たちよりも少し早く宿を出て、作業現場へと向かっていった。

アランドリーの入社式は毎年新潟工場で行われている。新入社員を連れて毎年この宿を訪れる人事の小竹は、宿の奥さんと親しく話していた。

朝食を済ませた店町たちは、迎えのマイクロバスに乗って工場へと向った。店町がジョギングで走った道とは別の道をバスは進んだ。

「あそこに見えてきたのが、新潟工場です」

小竹が指差す方向を皆が見た。広い敷地に大きな建物が建っている。敷地面積二万坪。工場の建物と倉庫の建物が広い道を挟んで併設されている。同規模の建物がまだ二、三棟建てられるような広さである。

正面の門を入り、マイクロバスは工場正面玄関に横付けされた。明け方の肌寒さが嘘のように、辺りは暖かくなっていた。工場勤務の従業員たちの車が続々と敷地内に入ってきて倉庫の裏手に消えていく。

「大阪の本社とは違って、ここは新潟市でも外れですから、電車の便が悪くて、ほとんどの人が自動車通勤なんです」車のほうを見ながら小竹が言った。

建物の中に入ると、高卒の新卒社員八名が待っていた。大阪本社勤務の大卒社員十一名以外にも、地元採用の高卒社員がいたのである。

工場のロビーには、洗濯機が展示されていた。手まわし式の時代のものから、初の全自動洗濯機、最新式の乾燥機能付きの製品まで年代順に十数台並べられていた。それぞれの製品の後ろの壁には、チラシの拡大コピーと説明パネルが貼られている。古い年代のチラシは色あせていて、そこに写っている女性の服装も時代を感じさせた。一九五〇年代の場所には国産第一号の他社製品が展示されていて、さらに奥には洗濯板が展示されていた。

店町はその説明パネルに歩み寄った。パネルの下のほうに『宗像とみ氏寄贈』と書かれていた。

店町たちは『平成十一年度 入社式会場』と書かれた講堂に案内された。

入り口近くのテーブルの上には豪華な生け花が一段高いところに飾られ、演壇の右奥後方には幹部席が設けられていた。店町たちが着席してしばらくすると、この会社の幹部とみられる十名が順々に入ってきて席に着いた。

宗像社長は定刻二分前に会場に現れた。恰幅のいい体格をしている。高校時代に柔道部に所属していたとあって、歩く姿もどっしりとしている。店町の面接の際に見せた優しい顔とは違い、少し厳しい表情である。

新入社員が座る席には緊張感が漂い、少し咳き込む者がいた。張り詰めた空気は幹部たちが座る席も巻き込んでいる。

宗像が中央の演台に近づくと小竹は少し上ずった声で「一同起立」の号令をかけた。

「アランドリー株式会社、平成十一年度入社式を開催いたします」

皆は司会を務める小竹のほうを注目した。小竹は式の進行について説明をはじめた。社長の挨拶の後に幹部社員の紹介、それから新入社員代表の決意表明の順で式は予定されている。決意表明の大役は、一番端の席に座る店町が努めることになっていた。

式についての説明が続く中、突然、宗像が演台から歩み出て来て、小竹の司会をさえぎった。そして、新入社員たちの席の前につかつかと歩み寄り店町の席の隣で立ち止まった。宗像の次の行動を誰もが見守った。小竹は明らかに動揺している。

「鈴木君だったね」

店町の隣に座っていた鈴木は、大きな返事をして慌ててイスから立ち上がった。宗像は、肉付きのいい丸い顔で覗き込むようにして、「君はそろばんが得意なそうだね。うちの会社は君のような人物を待っていたんだ。研修がひと通り終わったら、君には経理部門で頑張ってもらうから、よろしく頼むよ」と言った。宗像は右手を差し出して鈴木に握手を求めた。鋭い目つきの中にも優しさが漂っている。宗像はうなずきながら握手を終えて、隣の席の前に移動した。そしてまた握手を求めながらこう言った。

「陣内君、君は挨拶がはきはきしていてとても印象がいい。営業部での活躍を期待しているよ」

新入社員名簿を持っていた小竹の手は少し震えている。

宗像は、その後もひとりずつ名前を間違えることなく大きな声で呼びながら、一人ひとりに握手を求めた。

名前を呼ばれた新入社員は、即座に立ち上がり、宗像が差し出す右手に応じた。宗像が正確に覚えていたのは名前だけではなかった。新入社員全員の経歴、趣味特技といった内容まで正確に把握していて、一人ひとりにねぎらいの言葉を掛けて握手を求めたのである。

水野という女性の左隣からは高卒のメンバーが座っていた。宗像はそちらのほうへは行かずに、一番右端に座る店町の所へ戻ってきた。

「店町君。君には一番期待している」

講堂中に響く大きな声だった。店町の顔を睨むような目でぐっと覗き込み、両手で握手を求めた。その手は力強く、不自然なほど分厚かった。

次に宗像は、高卒メンバーたちが座る席の前に行き、こう言った。

「私も高卒で社長になった。君たちも、頑張り次第で将来は私みたいに社長になれる。大卒だから偉いというわけじゃない。これから社会人としてどう立派に生きていくかが重要だ。人よりも早く社会に出られることを誇りに思いなさい」

そしてまた一人ひとりの前に行き、握手を求めて、全員の名前を間違うことなく歓迎の言葉をかけた。程度の差こそあるものの、皆にとっては就職氷河期にやっとの思いで手に入れた就職である。新入社員たちは社長自らの心温まる歓迎に震えるような感動を覚えた。

小竹はこの日のために新入社員全員の顔と名前を間違えまいと履歴書のコピーを自宅にまで持ち帰って準備をしていた。社長が新入社員に握手を求めるたびに小竹は手元の名簿に目を落として間違いがないかを確認した。決意表明を任されている店町以外の席順は決まっていなかったが宗像の紹介は正確だった。毎日夜遅くまで多忙に働いている社長のほうが人事の小竹よりも新入社員のことに詳しかったのである。

演台に戻っていく宗像社長の後姿は背筋がぴんと伸びていて、競争社会を勝ち抜いてきた逞しさと、人の心を惹き付ける魅力が漂っていた。

新入社員たちの緊張は続いていた。隣に並ぶものどうし目配せをしている。その目は「すごいな」と言っていた。

「さあ、小竹君、続けてくれたまえ」

手元の資料をあわただしく繰る音がマイクをとおして会場に響いた。

「そ、それでは、新入社員の紹介は、宗像社長のほうから今ご紹介いただきましたので、……」

小竹は上目使いに社長の反応を伺うように言葉を続けた。 「本日の式にご出席頂いております、アランドリー株式会社の幹部の方々をご紹介させていただきます」

社長は特に表情を変えず小竹のほうから幹部席に視線を移した。

「新入社員の方は、起立してください」

パイプイスが床をずれる音が会場内に響いた。宗像の洗礼を受けた新入社員たちの行動は素早かった。取締役四名と、部長職以上の役職者六名が席にいた。役職者は出席者以外にも数名いるとの説明が小竹から付け加えられた。紹介された中にひとり女性がいる。営業部門を統括する田丸という取締役である。四十を過ぎているとの噂であったが、真紅のスーツを着るその姿は、とてもそうは見えない。すらりとしたスタイルの化粧栄えのする女性である。

幹部社員の紹介が終わり、式は決意表明へと続いた。

小竹に紹介された店町は、幹部席に一礼した後、宗像の前に進んで決意表明の原稿を内ポケットから取り出した。そして自らの決意を確認するように一呼吸置いて話しはじめた。

「ここに決意表明を書いた紙を準備してまいりましたが、先ほど社長様から温かいお言葉をいただいて、私たち新入社員全員は感激いたしております。あらかじめ準備してきた言葉ではなく、今ここで感じている気持ちをそのままに決意表明させていただきたいと思います」

店町はこの日のために何度も何度も書きなおして準備した入社決意表明書を再び内ポケットにしまった。

宗像はしっかりとした表情で店町のほうを見つめている。

この日が自分たちにとってどれほど大きい日なのか、またここで交わした社長との握手がこの先どれほど大きな心の支えとなるか、店町は自分なりの思いを交えて決意を述べた。そして店町は、決意表明の最後を「宗像社長のもとならば、私たちは最大限の力を発揮できると思います。発揮したいと思います」と締めくくった。

わずかの沈黙のあと、幹部席から小さな拍手が起こり、それは出席者全員に大きく広がった。宗像は店町に手を差し出して、二人は力強く握手を交わした。宗像の左手は店町の肩を温かくたたいていた。

参加者は皆、満足気な表情をしていた。それぞれの立場の感動を確かに感じていた。それは社会人としての一歩を踏み出した喜びと、それを温かく見守る喜びに満ちたものだった。窓から春の明るい日差しが差し込む会場で入社式は滞りなく終了した。

入社式後の研修は、工場内の見学からはじまった。十九名は製造課長に連れられて、生産ラインの各工程の説明を受けながら広い工場内を歩いた。作業員の上着の肩の部分には『クレームゼロ』と刺繍されたワッペンが付けられている。工場内の一番目立つ場所には、ひときわ大きな字で『品質第一』の標語が掲げられていた。

部品は棚にきれいに整頓されている。生産ラインに立つ作業員たちは、規則正しい動きで洗濯機を組み立てていた。工場内のあちこちから大きな音が聞こえる。フォークリフトがサイレンを鳴らしながら通路を行きかった。

最終工程の梱包作業は、アーム型のロボットが行っていた。梱包済みの製品は、フォークリフトで倉庫へと運び出されていた。

倉庫内には、梱包済みの製品が五段に積み上げられていた。天井は高かったが、フォークリフトで積み上げられる限界が五段までのようである。

「地震が来ても大丈夫ですか?」

神戸出身の女性社員の質問に対して製造課長は、

「大きな地震だと崩れるだろうけど……」と言葉を詰まらせた。

「まぁ、対策を今後は考えないといけないですね」

側にいた倉庫課長が付け加えた。

製品の山の隣に『新品再生品』と書かれた箱が大量に積み上げられている。

「あの新品再生品というのは何ですか?」

店町が聞くと、倉庫課長が苦笑いを浮かべながら答えた。

「製品の不具合とかで返品されてきた製品を部品交換して新品再生したものですよ。もちろん、再生可能な基準というものがありますけどね。うちの商品のクレーム率は、結構高いんですよ。特に発売直後は多いですね。自慢できる話じゃないですけどね」

倉庫の一角を占拠するように積み上げられた山を見ながら、店町は『クレームゼロ』というワッペンや『品質第一』という標語は、まだ理想の域を抜け出せていないのだろうかと思った。

倉庫の搬出口には横開き型の大型トレーラーが横付けされていた。その荷台を目指して数台のフォークリフトが製品を運んでいる。

出荷体制についてひと通りの説明が終わると、工場内に昼休みを知らせるベルが鳴った。作業員たちは一斉に手を止めて、食堂へと移動しはじめた。新入社員たちの昼食は食堂とは別に、離れのゲストルームに用意されていた。

「すごい入社式だったな。社長自らが握手求めてくるんだから、緊張して俺ちびりそうになったよ」

「それにしても、店町君、すげーな。格好良かった」

「あの決意表明は良かったね。あれってアドリブなんだよね」

「まぁ、そう……」店町は少し照れ笑いを浮かべた。

「ねぇ、社長の小指、見た?」

水野が違う話題を持ち込んできた。彼女は新入社員の中で一番小柄であるが、物怖じせずにはっきりとものを言う性格をしている。

「そうそう、左手の小指の先、ほんの少しだけど短いよね。爪半分くらい」

もうひとりの女性も気付いていたらしく、話に入ってきた。

「見た見た。店町さんの肩に手を乗せているときでしょ」

「へぇ? そうだっけ。俺全然気付かなかったなぁ」

四名いる女性社員が皆その事実に気付いている中で、男性は誰ひとりとして気付いていなかった。

「もしかして、もともとそういう世界の人?」

「まさか」

「でも、かっぷくもいいし、怒ったら怖そうだし、組長って感じだしありえなくはないね」

「ちょっと気になっきたよ、俺、今から見に行ってこようかな」

「おいおい、殺されるかも知れないぞ」

皆笑った。その中で店町は、度が過ぎた冗談には深入りしなかった。

「おっ、さすが社長秘書。社長を弁護するあたり、既に秘書になりきってるねぇ。俺には無理だな」

「ところで店町君って、いつ社長秘書になれって言われたの?」

誰もがこのことを聞きたかったようで、皆が店町のほうを注目した。

「えっ……、さっきの入社式のときだけど」

「へぇー、やっぱり皆そうなんだ。面接のときに希望職種聞かれたでしょ? そのときに社長秘書になりたいって答えたの」

「いや……。そういえば希望職種を伝えたことがなかったかも知れない。聞かれた覚えもないし」

店町は、伝えなくとも今までの経歴からして研究開発部に配属されるものと予想していた。けれども入社式の中で宗像の口から出た言葉は、社長秘書として頑張ってくれ、というものだった。

その言葉を聞いた瞬間、店町は無上の喜びを感じた。宗像社長のもとで働きたい、その想いで希望した会社であったから、当の本人の側近として働けるということに、変えがたい喜びを感じたのである。店町自身はまだ気付いていなかったが、自分だけ特別扱いされるという優越感をこのとき潜在的に感じはじめていたのだった。

昼食が済むと、ゲストルーム内で各部門責任者からの講義がはじまった。店町は積極的に質問をした。会社の仕組みをいち早く身に付けたかったのである。時折難しい質問をして部門責任者を困らせることもあった。

店町は周りの新卒社員よりも二年遅れて社会人になったことに少し引け目を感じていた。講師に対する数々の質問は、その遅れを取り戻そうとする店町の意気込みの表れだった。店町の質問に対して講師たちは嫌な顔はしなかった。むしろ店町のことを注目して見ていた。宗像社長自らが社長秘書に命じた人物。その情報はいち早く社内に広まったようである。

店町はアランドリーを選ぶ際に売上規模や給与水準といった誰もが注目する点にあまりこだわらなかった。売上高一〇〇億円の会社が国内でどのあたりに位置しているのかも知らなかった。その正直な質問に対して、管理本部長はとてもいい質問だと言った。二百万社以上ある日本の会社の九〇パーセント以上が年商一〇億円に満たない零細、小企業であるということを店町はその席ではじめて知ったのである。店町の周りにいた学生たちは皆、推薦を得て数千億円以上の売上高を誇る大企業に就職していた。外資系の企業に就職していきなり海外に勤務するものもいた。しかし店町は、その差をあまり気にすることも羨ましく感じることもなかった。むしろ畑違いの分野に二年遅れて就職したことに対して遅れを感じていたのだった。

初日を締めくくる海外戦略の講義には宗像社長自らが立った。

「これからの時代で鍵を握る国はどこだかわかりますか?」

他の講師から受けた説明とは違い、宗像社長の言葉の重みは違う。この質問に対して陣野が手を上げた。先ほどまであまり質問をしなかった彼も、社長の目を意識しているようである。

「中国だと思います」

「そう。陣野君はよく勉強してますね。販売市場として、アメリカ、ヨーロッパも有望ですが、これからはアジアです。特に中国が急激に成長していくでしょう。中国は世界の工場としての立場を既に築きつつあります。十二億人以上を抱える中国は、今後販売対象地域としても有望なのです」

「上海の工場が稼動するのはいつ頃ですか?」

店町のこの質問に対して宗像はうれしそうな顔をした。

「来年の夏あたりだろうね。という会社名で設立済みで建物の建設も既にはじめています。中国は日本の制度と違うところがたくさんありますから、まあいろいろと大変です。土地自体も国から何十年契約で借りる形になりますし、税金の問題や輸出入の通関の問題やら。中国で物を作っても直接中国市場には販売できないのです。中国に工場を作るということは、いろいろと大変なことがあります。けれども、それに見合うだけのメリットがあるんです。一番大きなのが、やはり人件費の問題でしょうね。日本の十分の一から二十分の一です。もちろん、日本でいう社長、現地での総経理という立場の人はそれなりの給料を取ります。賃金格差がものすごく大きいのが今の中国の特徴です。単純作業には人件費が安くて済む地方出身者を当てればいいわけですし、部門責任者には日本への留学経験がある優秀な人物を置けばいいのです。田舎から仕事を求めて出てきた人たちが余るほどいるわけですから、中国では採用に困ることはありません。ここ数年の上海の発展は目覚しいものがあります。ビルの数やその高さを見ると、大阪が田舎に見えてきます。それぐらいの発展ぶりなのです。その一方では、生活水準の格差も大きいですから、上海の中心地をベンツが走っているかと思うと、郊外ではまだ馬が荷物を運んでいたりします。そのような場所に行くと、子供たちが何かくれ、何かくれ、と言って近寄ってきます。数十年前の日本を思い出しますね。少年たちは生きるために必死で目を輝かせています。今の日本には、そういうひたむきな目の輝きがなくなっています。うかうかしていると、あっという間に日本は中国に抜かれてしまうかも知れません。

今、中国に存在している生活水準の格差は、一九七八年に鄧小平氏が宣言した『先富論』によるものです。沿岸地域や一部の企業、努力した一部の人たちが先行的に裕福になる。いずれはその裕福になった人たちが貧困層に手を差し伸べて、中国全体の生活水準を底上げする。そのためには、牽引役として富を先行的に手にする人たちが現れることを受け入れなければならない、という考えです。その結果として、現在の中国には大きな生活水準の格差が生まれています。いずれはその格差も縮まってくるでしょう。鄧小平氏のその宣言がなければ、今のような中国の発展はなかったでしょうし、海外企業がこぞって進出を目論む対象地域にはなっていなかったでしょう。中国は今、ものすごい勢いで変化しています。アジアが中国を中心として動き出す時期がすぐそこまで来ています。この時代の変化に逆行してはいけません。むしろ先取りした戦略戦術で持って中国進出を狙っていく必要があるのです。アランドリーの規模の会社にしては中国進出時期は早いほうです。けれども大企業は既に何年も前から中国に進出しています。その中で勝ち残っていくには、戦略的に進めていく必要があるのです。その時代の幹部候補としてあなたたちには頑張ってもらいたいのです」

午後五時十分、業務終了を知らせるチャイムとともに入社式当日の研修がすべて終了した。

店町たちは、ワンボックス型の社有車二台に分乗して宿に戻った。翌日からその車を自分たちで運転して工場まで移動することになる。宿の周辺に点在する民家の中に小さな店があった。その店は午後六時で閉店するらしく、店主は表に出してある商品を片付けはじめていた。

「せっかくだから、ドライブ行こうか」

陣野の呼びかけで夕食までのしばらくの間、周辺をドライブすることになった。一台は陣野が運転し、もう一台は店町がハンドルを握った。

総勢十一名を乗せた二台の車は、店町が朝走った海岸通を通って少し遠まわりして再び工場へと向かった。工場の建屋が見えてきたあたりで、右手に大きな湿地が広がった。ラムサール条約に登録されている『佐潟』である。

陣野が運転する車が水鳥湿地センターの駐車場に入ったのを見て店町も続いて車を寄せた。

ヨシの若葉が湖畔を彩っていた。渡り鳥の姿はほとんど見られない。店町が朝早く海岸通りから見たのとは少し違う姿の角田山が湖面に逆さに映っていた。数羽のツバメが飛び交い、ウグイスの声が遠くから聞こえる。都会では感じることのできないゆっくりとした時間が流れている。

「ここって、冬になると白鳥が来るんだよね」

「そう、有名な瓢湖ほどじゃないみたいだけど、毎年三千羽以上来るらしいよ。社長がここに工場を作ったのもこの佐潟が近くにあったからだからね」

「へぇー、そうなんだ。さすが店町君詳しいね」

店町は、工場建設地として宗像が新潟を選んだ理由、生まれ故郷の瓢湖を思わせる佐潟が近くにあったからこの場所を工場用地として選んだという背景をかいつまんで皆に説明して聞かせた。

「瓢湖に一度皆で行ってみたいね。冬の瓢湖に」

「新潟工場に出張の機会があればいいんだけどね。たぶん俺にはないだろうな。社長秘書の店町君にはあるんじゃない?」

「いいなぁー、うらやましいな。経理の仕事といったら、ずぅーっと会社の中だもんな」

「それにしてもこの大自然、たまらないねぇー。俺たち働いている場合じゃねぇよ」

「おいおい、入社初日からなんてこと言うんだ」

皆笑った。

宿に戻る頃には辺りは真っ暗になっていた。

夜はとても静かだった。電車の音も車の騒音もまったく聞こえない。夕食のあと店町が外に出て空を見上げると、透き通るような空気の先に満天の星空が広がっていた。同じ空でありながら、都会ではけっして見ることのできない夜空が店町に時間の経過を忘れさせ、今踏み出したばかりの社会人としての第一歩に思いをはせるゆとりを与えた。

翌朝も店町はひとりでランニングに出かけた。初日とはコースを変えて、海とは逆のほうに向かった。遠くに見える五頭連峰のふもとまで越後平野は広がっている。その景色を眺めながら、店町は他の季節のここの風景も一度見てみたいと思った。

「店町君って、本当にタフだよね。雨の日も走るんだ?」

「いや、雨の日はストレッチと軽い運動だけだね」

「じゃ、雨の日が楽しみになったりとか?」

「いや、それはないね。それほど目の色変えて必死で走っているわけじゃないから。趣味の範囲だけだからね」

店町の端正な容姿からはとてもタフそうには見えない。身体的能力の高さと精神的強さは、むしろ内に秘められていた。

二日目からはグループに分かれての現場実習がはじまった。プレス加工、組立て、溶接、塗装、検査、梱包、搬出といった作業をローテーション的に実習するのである。

新入社員たちの研修は毎日定時で終了する。それから皆決まってドライブに出かけた。都会で生まれ育った本社勤務の十一名にとって海は珍しかった。研修中日の日曜日には、店町たちは社有車で少し遠出をした。国道四○二号線を南下して角田山の麓を越えて、海の眺望が美しい場所まで一気に車を走らせた。角田浜の先は通称『越後七浦シーサイドライン』と呼ばれている。角田岬灯台のトンネルを抜け、どこまでも続く海を右手に見ながらシーサイドラインを進むと、標高六三四メートルの弥彦山の麓にたどり着く。その途中、海に浮かぶいくつもの奇石が目に付いた。

「弥彦山の頂上まで行ってみようぜ」

皆が見上げる頂上付近に、展望台らしき建物が遠く小さく見えている。そこから少しはなれたところをパラグライダーが日本海に向けて飛び立つ姿が見えた。

車中は楽しい会話が絶えない。うねる山道を上りながら左右に身体を寄せ合い、二台の車は山頂付近にたどり着いた。駐車場に車を止めて、そこから皆歩いて小高い場所に登った。眼下には見渡す限りの日本海が広がった。絶景である。この眺めを大切な誰かに一度見せたい、誰もがそう感じるような眺めだった。

佐渡島がはっきりと見えている。麓から見えたパラグライダーは、海の上を旋回して飛び続けていた。

スケールの違うこの土地で、大阪では感じることのできない大自然をゆとりの時間の中で満喫して新入社員十一名は二週間の工場研修期間を終えた。

店町たちは、四月三週目の金曜の最終便で帰阪した。休み明けの月曜日からいよいよ本社勤務がはじまる。店町は社長秘書として、刈谷の部下として働くことになる。他の新入社員たちもそれぞれの配属部署で新たな一歩を踏み出すことになった。

— 第6章 終 —