第7章 刈谷の隣席
秘書室のある最上階のレイアウトは、店町が面接を受けたときと変わっていなかった。店町のデスクは刈谷の席の隣に準備されていた。デスクマットには内線電話番号表などの必要な文書が既に整えられている。刈谷のデスクの上は整理されていて、必要最小限のものしか置かれていない。ノートパソコンの画面にも塵ひとつなかった。
店町の本社勤務初日、宗像社長は上海工場に出張中で本社を留守にしていた。
「店町君。君の時計は正確か?」
刈谷は表情ひとつ変えず店町に聞いた。
刈谷が仕事に厳しい男であるということは人事の小竹から事前に知らされてはいたが、刈谷のこの一言は小竹が表現していた以上の厳しさを店町に予感させた。「そんなに緊張しなくていいよ」と言う刈谷の目には油断をけっして許さない厳しい光がともっている。
店町が社長秘書勤務となってはじめての仕事は社長室内の掃除だった。
面接の際には店町は気付かなかったが、社長室には統一感のない置き物や絵などが飾られている。それらが取引先からの贈り物であることは容易に想像がついた。特に目立っているのは、ハイバックチェアの後ろ飾られた掛け軸である。達筆に書かれた文字は読み取ることができない。商談テーブルの横には大きな書棚があり、様々な書籍がそこに置かれていた。
「社長が出張されている間に掃除は済ませておくこと。勝手に置き場所を変えたりしないこと。ドアの左横に大きな鏡があるだろ。あれもときどき磨いておくように」
化学雑巾を手に刈谷が手短に説明した。刈谷が指差すほうにゴールドで装飾されたヨーロッパ風の大きな壁掛け鏡があった。くもり一つなくきれいに磨かれていた。ドアの右横には店町の背丈より高い観葉植物が飾られている。
「何か触ってはいけないものとか、見てはいけないものはありますか」
刀の置物を拭きながら店町が刈谷に聞くと、刈谷は無表情にこう言った。
「そんなものはない。秘書というのは社長の手足であって頭なんだから。社長に見せてはいけないものはあったとしても、秘書が見てはいけないものはない」
さらに刈谷はこう付け加えた。
「ただし見たものは、たとえどんなものだったとしても自分ひとりの中にとどめておくこと」
刈谷のこの言葉を聞いた店町は、これは大変なことになったぞという思いとともに、面白くなってきたぞという期待に気持ちが高まるのを感じた。
「それと、店町君。この電話、時々鳴るけど、絶対に出ないように」
刈谷が指差した電話機は、ボタンこそプュッシュホン式であったが、見かけは旧式の黒電話だった。それは、共通電話機の隣に置かれていた。
店町はその電話機に興味を持ったが、あまり聞かないほうがいいだろうと考えて、何も聞かないことにした。たとえ聞いたとしても、いずれわかるよとでも言われそうな雰囲気だった。
社長室を出て、扉に鍵を掛けながら刈谷は説明を続けた。
「エレベーター前に直接出る扉もあるけど、社長はいつも秘書室を通り抜けて出入りするから、向こうのドアの鍵は開けないように。それとガラス窓もときどき外から掃除するように。ここは十階だから落ちないように気を付けたほうがいいよ」
刈谷が話している内容は冗談ぽくも聞こえるが、その表情はたいそう真面目であるため店町はどう反応したら良いのか少し困っていた。
ひと通りの掃除を終えて、二人はデスクに戻った。海外事業部のメンバーたちが店町のほうをちらちらと気にして見ている。
刈谷が次に指示したのは、刈谷の手帳から宗像社長のスケジュールを書き写す作業だった。
刈谷の革の手帳はかなり使い込まれている。そこに細かな几帳面な字で書かれた社長のスケジュールは、半年先までびっしり埋まっていた。刈谷自身のスケジュールはそこにはない。この男の一日は宗像社長中心に動いているのは明らかだった。
店町は自分の真新しい手帳にスケジュールを書き写しながら社長に出張が多いことに驚いた。店町が書き写している間も刈谷は電話応対や書類作成などせわしなく働いていた。電話番号も見ずに、いくつもの相手先に電話を掛けていた。一年先のスケジュールまで書き写すのに店町は午前中いっぱいの時間を要した。
午後からは各フロアへの書類の配付と合わせて、刈谷は店町を各部署に紹介してまわった。
各階への移動に刈谷はエレベーターを使用しない。階段を駆けまわったのである。店町は刈谷を駆け足で追った。
「エレベーターを待つ時間はもったいないだろ」刈谷は階段を駆け下りながら後ろの店町に言った。
刈谷はどの部署の社員からも信頼されている。各フロアで紹介されるたびに店町はそう感じた。この人はいったい何者なんだろうか、店町が本社勤務一日目に感じた感想だった。
実務を交えた業務全般の説明を受けて、店町の本社勤務初日が終わった。
店町は入社一週間前に大学近くのアパートから江坂のマンションに移り住んでいた。会社のある新大阪から市営地下鉄で二駅という便利さもその場所を選んだ理由であったが、バブル期に西日本で有数の地価高騰地域であったというブランド性にも店町は惹かれていた。
江坂駅一番出口を出て、マンションまで歩く道は夜でも明るい。江坂公園の端に階段状に水の張られた噴水が幻想的な色の光で照らし出されている。公園の北側にはポプラ並木の広い歩道が店町のマンションの側まで続いていた。
店町が自宅に着いたのは午後十一時を過ぎていた。
「陣内、初日はどうだった」
電話口の陣内も初日を終えて帰ってきたばかりの様子である。
「すげーわ。もう駄目だ。俺、続くかな、こんな厳しい会社で。工場研修とは全然違うんだもん。話が違うよ、話が。しかも、社長が出張から帰ってきたら社長朝礼があるから八時前の出勤だろ。店町は七時過ぎの出勤になるんだっけ」
「そう、明日の午後社長が帰国されるから、明後日の朝からは社長朝礼がはじまるぞ」
宗像が出張の日以外は、朝八時から新入社員に対する社長直々の教育の時間が予定されていた。業務に関するものが三割。残り七割が精神論、人生論といったものだということだったが、店町はその朝礼を楽しみにしていた。しかし他の新入社員たちは早起きしなければいけないという点で、あまり乗り気にはなれないようである。
翌朝、店町はそれまでのように日の出時刻に目を覚ましたが、ランニングに出かけるのを少しためらった。極度の緊張の中で過ごした初日のことを思い返して、体力を温存しておくべきかも知れないと考えたのだった。結局その日は走らず店町は刈谷の指示通り八時に出社した。
社屋のセキュリティは既に全フロア解除されていた。
刈谷は自席に着いていた。
「おはよう、店町君。本社勤務二日目の気分はどうだい」
刈谷は温かみのある表情で店町を迎えた。昨日はほとんど見せなかった顔である。
「今日は社長が上海からお戻りになるから、昨日とは少し違う一日になるぞ。三時頃に会社を出て、車で関西空港までお迎えにあがるから。店町君、免許持っているよね」
店町が、「はい」と答えると、刈谷は笑顔で続けた。
「今日は、センチュリーの運転の練習だ」
店町はその言葉を聞いて驚いた。刈谷が社長車の運転手も担当しているということは知っていたが、その役務を入社間もない自分にさせる、と言うのだろうか。センチュリーを運転する機会など、一生に一度もないのが普通であるが、その機会が自分にこんな形で訪れようとは店町は想像すらしていなかったのである。
刈谷は、店町がどんな反応をするかを楽しんでいるようである。けれども実際に社長車を運転させるというのは、どうも嘘ではないらしい。
始業のチャイムが鳴ると、二人は手帳を持って一階に降りた。刈谷はセンチュリーのトランクから大きな毛ハタキを取り出して、それを店町に手渡した。
「まず、出発前に車を掃除してくれるかな」
黒光りして見える車体も、近く寄ると細かな埃が乗っている。
「店町君、そんな掃除の仕方じゃ駄目だよ。埃を掃うのは前から後ろが基本だ。まず、屋根、次にトランク、ボンネット、そして両サイドの順だよ。ウインドーは別の布で最後に拭く。しっかり覚えてくれ」
そう指示する刈谷の口調は、どことなく上機嫌である。
店町は助手席に座り、刈谷が運転席に座った。ドアが閉まる手ごたえと音が普通の車とは違う。革張りのシートも心地よく身体になじむ。すべてにバランスの取れた安定感がある。店町は興味深げに車内の装備を見まわした。
「刈谷さん、この車いったいいくらするんですか?」
「一千万円ぐらいじゃないの。メーカー側は売る相手を選ぶから、普通の人には売ってくれないよ。社長もやっと手にした車だからね。社長はこれまでもいろんな車に乗ってきたみたいだけどね、BM、ベンツ、ジャガー、日本に数台しか走っていないような車にも乗ってたこともあったみたいだしね。それで最後にたどり着いたのがこの車ってわけだ」
刈谷が車を発進させた。エンジンが掛かっていることに気付かなかった店町は驚いた。V型十二気筒のエンジンはとても静かに心地よい回転音を奏でた。カーブを曲がる際もふわりと進んでいく。
「いつもそこのガソリンスタンドを利用しているから、定期的なオイル交換と洗車も忘れないように。もちろん手洗い洗車だから」
刈谷は顔なじみのスタンドの店主に店町を紹介した。
「よし。運転してみるか」
店町は刈谷からキーを受け取り、運転席に座った。ルームミラーの角度を合わせる手が少し震えた。
アクセルは軽く、反応がいい。店町が知る車のそれとは明らかに違った。ステアリング、加速、ブレーキどれをとってもまったくストレスがなかった。車の下を道路が動いているような気さえする。道が開いていくように感じられた。実際にウインカーを出すと、そちら側の場所がさっと開いた。センチュリーの車体を見てどの車も道を譲ってくれるのである。なんともいえない心地よさをこの車は与えてくれる。店町は次第に緊張感がほぐれていくのを感じた。もしかしたらこの車は運転する人間の人格までをも変えてしまうかも知れない、店町は無意識のうちにそういった感想を抱いた。
二人は一旦会社に戻り、車庫入れを練習したあと午後の迎えに備えた。
関空橋の上は風が強かった。白く薄化粧した水色の空のもと、橋の両側には細かな白波がどこまでも広がっていた。
店町は立体駐車場の二階に車を止めて、刈谷の後ろに付いてターミナル一階の到着口に向かった。関空開港五周年を知らせる垂れ幕が目に付いた。宗像が乗っている全日空機は、定刻通り飛んでいるようである。
南側の到着出口で二人は宗像の帰りを待った。到着予定時刻までまだ少し時間があったが、刈谷は出口を見渡せる場所に姿勢正しく立っていた。その斜め後ろに店町も待機した。
宗像が乗っている航空機の到着を知らせる放送が流れた。
「これから入国審査があって、それから荷物の受け取りだからあと十五分くらいで社長が出てくるから」
刈谷は店町のほうを少し振り向いてそう言った。
しばらくするとゲートから乗客が出てきた。その便は中国東方航空との提携便だったため、ゲートから出てくる乗客には中国人の姿も多く目に付いた。出迎えの人と抱き合っている姿もある。
宗像の姿が見えた。店町が気付いたときには既に刈谷はゲートの前に歩み出ていた。
「社長、お帰りなさいませ。お疲れ様でございました。お荷物お持ちいたします」そう言って社長から鞄を受け取ると、刈谷はその鞄を店町に手渡した。刈谷の動作は素早かった。店町は受け取った鞄を大事に抱えて長いエスカレーターを上り、駐車場へと案内した。
荷物は店町がトランクに積み込んだ。刈谷は宗像の座る後部座席のドアを閉めて助手席に乗り込んだ。刈谷が直接店町に指示したわけではなかったが、社長を乗せて会社まで運転しろということである。
店町はできる限り平静を装って「それでは、出発いたします」と言って車を発進させた。肩に力が入り、ハンドルを握る手に汗がにじみ出た。店町は、ルームミラーに写る宗像の顔を見た。宗像は真剣な表情で、出張中に溜まった日経新聞の主要記事に目を通している。三人を乗せた車は阪神高速の上をしばらく無言で走った。
「私の出張中に何か変わったことはなかったかな」
社長の言葉に対して助手席の刈谷が後ろを振り向いて答えた。
「いえ、特に急ぎのものはございませんでした。確認事項が何件かございますので、社に戻ってから報告させていただきます」
「そうか、わかった。よろしい」
社長は新聞を折りたたみながら、今度は店町に話し掛けた。
「それにしても、店町君、はじめてにしちゃ運転うまいじゃないですか。ねぇ刈谷君。刈谷君もなかなかなものだけど、店町君も負けてないですね」
店町は、ルームミラー越しに宗像の顔をちらちら見ながら会社まで車を走らせた。
ビルに到着すると宗像は一足先に社長室に上がっていった。
「よくやった。店町君。上出来、上出来」
刈谷の誘導に従って駐車スペースに車を止め、店町は荷物を抱えて刈谷とともに最上階に上がった。
肩の力を抜いている暇はなかった。すぐにスケジュール確認が待っていた。宗像のデスクの上には、出張中に溜まった稟議書や郵便物が大量に置かれている。これから深夜まで宗像はこれらの書類の処理をするのである。
店町は刈谷の勧めで第二日目の業務を午後十時で切り上げて帰宅することにした。
マンションに戻った店町は、ソファにしばらく倒れ込んだ。会社では、出張帰りの宗像と刈谷がまだ働いている。それを想像すると、店町は自分の体力のなさを情けなく思った。翌朝からは新入社員に対する社長朝礼が朝八時からはじまる。店町は七時過ぎに出社することになっていた。店町は翌朝に備えてワイシャツにアイロンを掛けてベッドにもぐった。
翌朝店町は時計のベルの音で目を覚ました。日の出時刻に自然に目覚める習慣も、ここ二日の多忙な業務で狂ってしまったようである。まぶたが重い。けれども顔を洗うと同時に店町の精神状態は高まった。新入社員に対する社長直々の教育がいよいよはじまる朝だった。
店町が七時過ぎに会社に到着すると、郵便受けから取り出した新聞を手に刈谷がビルのセキュリティを解除しているところだった。
「ちょうどよかった。明日からビルのセキュリティ解除は店町君にお願いするから、今からその方法を教えるよ」
店町は刈谷の説明通りに全フロアのセキュリティを解除したあと、最上階へと上がり秘書室の鍵を開けた。
「刈谷さんは昨日は何時まで会社にいらっしゃったんですか?」
「二時頃だったかな」
「二時。ですか……」
刈谷は今朝も清々しい顔をしている。疲れが抜け切らない店町は、それを聞いて疲れを隠す笑顔を作ろうとした。
七時五十分になると二人は一階に降りた。刈谷はいつも単行本大の革の手帳を持っている。
刈谷は手際よく駐車スペースの掃除をはじめた。刈谷は言葉で教えるというよりも、自らの行動で店町に手本を示した。
「社長を迎える際の立ち位置は大体この辺だから、覚えておくように」
店町は刈谷の隣に立って社長の到着を待った。しばらくすると、交差点を曲がってくるセンチュリーが見えた。刈谷は車のほうをじっと見ている。車が隣のビルの前を過ぎたあたりで刈谷は深々と頭を下げた。
「おはようございます!」
とても大きな声だった。黒光りした車といい、それを運転する宗像の姿といい、まるでヤクザの親分を出迎えるような光景である。店町も刈谷の行動を真似て大きな挨拶をした。偉大な人物に仕えているという満足感を店町は感じた。
刈谷は宗像の運転する車を駐車スペースへと誘導した。ストップの掛け声とともに、サイドブレーキを踏む音がした。刈谷はセンチュリーの後方から流れるような動作で運転席の横に行き、両手でドアを開いた。
「おはようございます。お鞄お預かりします」
宗像は助手席に置いていた自分の鞄を刈谷に手渡して、おはよう、とひとこと言って車を降りた。出張帰りで昨夜遅くまで働いていた宗像の顔にも疲れなど見えない。
「店町君も少しは仕事に慣れてきたかい」
エレベーターの中で宗像は笑顔で店町を気遣った。
「刈谷君はできる男だから、しっかり教えてもらって頑張るんだよ」
最上階でエレベーターの扉が開くと、開け放たれた秘書室の扉の先に新入社員たちが既に待っていた。
社長のスケジュール確認が済むと、店町はいったん社長室を出て、他の新入社員たちの先頭に立って再び入室した。
「失礼します! おはようございます」
店町に続いて一人ひとり大きな声で挨拶をして社長室内に入った。椅子の数が足りないため、あとに続く社員はパイプ椅子を手にしている。
商談テーブルを取り囲むようにしてメンバーがそろうと、店町が大きな声で号令をかけた。
「これより、社長朝礼をはじめます。よろしくお願いします!」
それに続いて他の新入社員たちも頭を下げて着席した。新入社員に対する社長直々の教育がはじまった。
「君たちは、アランドリーの幹部候補として採用した。これから私の出張のない日は毎朝この時刻から三十分間、私から朝礼を行うから、皆遅刻しないようにしっかりと頼むよ。内容は、社会人としてのマナー、仕事についてが三割で、残りは精神論的な内容になる。社会人としてこれから君たちがどのような人生を送るかは、この一年で決まると考えてもいい。この一年間、手を抜いてはいけませんよ」
店町は緊張感の中にも、宗像から毎朝教育を受けることができるということに喜びを感じ、目を輝かせていた。
入社式の席では「大卒だから偉いというわけではない」と言っていた宗像であったが、大卒社員を対象とした社長朝礼の席では、態度は明らかに違った。中でも、大学院を卒業している店町に対する扱いはさらに特別なものだった。
初日の社長朝礼が終了したあと、臨時の全体朝礼が召集された。場所は九階の大会議室である。パイプ椅子が五十脚ほど用意されていて、既に社員たちがそこに座って待っていた。前には演台が置かれている。その台の上に録音用のテープレコーダーがある。
宗像に続いて新入社員たち十一名が中に入ると、座っていた社員たちが一斉に立ち上がった。
人事担当の小竹に促されるようにして新入社員は前に並んだ。一人ひとり自己紹介が終わると、宗像が演台に立った。最前列に座っていた刈谷が腰をかがめて素早く演台のほうに近づいて行き、テープレコーダーの録音ボタンを押した。宗像の話を聞く各社員の姿は真剣そのものである。上着を脱いでいる社員は誰ひとりとしていない。この会社は宗像社長をトップとして規律正しく統制が取れていた。宗像の話は四十分ほど続いた。
朝礼の締めくくりとして、社是、社訓の唱和が行われた。
「気合!、実践!、忍耐!」
全社員が唱和するその声は、他のフロアにも響く大きなものだった。全体朝礼が終わると社員は各々のフロアに戻って業務を開始した。
刈谷は店町の隣で忙しそうに仕事を進めている。店町は刈谷から指示された単純作業だけでも手一杯になっている。秘書業務を早く身につけようと必死であったが、そう簡単にこなせるものではないことを、店町はこの数日間だけでも実感していた。
刈谷が宗像とともに席を外しているときに、社長室の扉の向こうから電話のベルの音が聞こえた。
「店町さん、リンリン電話のこと、何か聞いた?」
入社三年目という海外事業部の北野真理子が店町に話し掛けてきた。店町の面接の際に上海工場からの電話を取り次いだ女性である。
「えっ、リンリン電話。ですか?」
「あれ、あれ。今鳴ってる電話よ」
刈谷から、取ってはいけないと言われた社長室内の黒電話のことである。
「あれねぇ、時々、あやしい電話が掛かってくるのよ。刈谷さんから聞かなかった?」
「いえ。絶対に出るなと言われましたけど」
「うん、出ないほうがいいと思うよ」
「北野さんは何かご存知なのですか?」
北野が何か答えようとしたとき社長が部屋に戻ってきたため、その話題はそこで終わった。刈谷はまだ戻ってこなかった。
しばらくして、今度は刈谷のデスクの内線電話が鳴った。刈谷はまだ席に戻っていなかったため店町がその電話を取った。メモとペンを手元に用意している。
「あーら、店町くん。仕事なれた?」
電話口からワントーン高い声が聞こえた。取締役営業本部長の田丸の声である。入社式の際に真紅のスーツを着ていた彼女は、日頃から少し派手目の服を身につけている。キャリアウーマンという表現がぴったり似合う立ち居振る舞いの女性である。親しげに話し掛けるその声は、自信にあふれていた。
「社長の七月十九日の予定を知りたいんだけど、店町くん、わかるかしら?」
「七月ですか」
「そうよ、七月十九日」
田丸が口にしたのは三ヶ月も先の予定である。店町は自分の聞き間違えだと思って聞き返したが、田丸が言ったのは確かに三ヶ月先の日にちだった。店町が手帳を繰る間も受話器から田丸の話し声が聞こえてくる。
「そういえば、店町くんって、国立大の出身なんだって? しかも医学部」
「いえ、医学部ではありません。確かに、基礎医学は勉強していたのですが、理学部です」
「へぇー、理学部。ふーん。そう。社長からは、医学部だって聞いたんだけどな」
電話口の話し声に気を取られた店町は、不自然に何度も手帳のページを繰った。
「あっ、田丸さん。ちょうど刈谷室長が戻られました」
「あ、そう。そしたら社長のスケジュール聞いてちょうだい。取引先の会合に出席できるか知りたいから」
店町が刈谷に用件を伝えると、刈谷はおもむろに受話器を受け取り、話しはじめた。
「九時五十四分、のぞみ八号で東京出張。十三時から洗浄機器工業会の理事会。十六時五十二分東京発、十九時二十六分新大阪着ののぞみ二三号で帰阪。新地の『り月』で十九時からはじまるSBO例会に途中から出席予定です」
刈谷が答えた内容は正確だった。何も見ずに三ヶ月先の予定を正確に伝えたのである。店町は数日前に自分が手帳に書き写した予定を目で追いながら、驚いた顔で刈谷のほうを見た。
刈谷がこなす秘書業務のレベルの高さを、店町は目の当たりにしたのである。この男には何年経ってもかなわないかも知れない。この男が仕えている宗像という人物は、さらに高いレベルで仕事をしているのは間違いない。
刈谷の仕事ぶりを一目見たとき、いずれこの人物を超えたい、そしてその先にある宗像という目標に限りなく近づきたいと感じた店町であったが、いきなり打ちのめされたのだった。超えることは無理かも知れない、と心のどこかで感じてしまったのである。諦めという思いではけっしてなかった。ただ目の前にいる刈谷の仕事ぶりを見ても、その周辺にある人間関係を総見してみても、自分が想像していたレベルとの乖離があまりに大きかったのである。
社長室の扉が少し開いて宗像が顔をのぞかせた。
「刈谷君。朝日商事の会長に電話をつないでくれるかね」
刈谷は指示を受けるとすぐに受話器を取り店町に渡した。
「番号を言うから社長につないでくれ。秘書経由でお願いするのだぞ」
店町は刈谷の言う番号を押した。刈谷は何百という相手の電話番号を正確に記憶していた。
店町は入社研修の際に電話対応のサジェスチョンを受けてはいたが、実践ははじめてである。
「こ、こ、こちら社長の宗像からのお電話ですが……」
声が震えた。はじめての電話対応は、店町の心の準備が整う前に突如訪れ、店町の気持ちの中に悔しさを残した。
まだ入社間もない立場だから、社長と刈谷室長は自分のことを温かく見守ってくれている。これも今だけのことだろうから、早く仕事を身につけなければならない。店町は、この電話をきっかけにさらに気を引き締めた。会社も家も通勤途中も関係なく、店町は常に仕事のことを考えるようにした。まず取引先すべての電話番号を暗記することからはじめたのだった。
