『風に向かって飛び立つ白鳥のように』|第三部 追い風の中の亀裂

第15章 見てはいけないもの

2005年原稿・Web版 全24章

翌日、店町は関空まで宗像を送った。宗像は新しいビザが付されたパスポートを手にしている。

宗像は、見送りの店町のほうを振り向かずに出発ゲートを入っていった。店町が駐車場に戻ったとき、取締役開発部長から店町の携帯に電話が入った。

「社長の飛行機はもう飛び立ったか」

開発部長は早口である。「栄陽電機から重要な書類が届いたから社長の出発を止められないか?」

店町は時計を見た。離陸まで少し時間があるが、宗像は既に出発ゲートを入っている。店町は一度電話を切って宗像に電話を掛けようと試みた。既に電源は落とされていてつながらなかった。要人に会うための出張であるため、そう簡単に渡航を止めるわけにもいかない。店町は再度技術部長に連絡を入れた。

「今、そっちに向かっているから次の便で社長を追いかけることができるかどうか調べておいてくれ。内容はそっちに着いてから話すから」

「部長、ビザは大丈夫ですか」

「あっ」

宗像のビザの件で苦労した直後であったため、店町の口からとっさにこの質問が出た。部長の中国入国ビザは切れていた。

開発部長は急に声のトーンを落とした。

「店町君……。きみのビザは、残っていますか?」

店町は宗像を関空まで送る際、いつも自分もパスポートを携帯するように心掛けていた。

「はい。私のビザは二回分残っています」

店町が窓口で確認すると、宗像の便の九十分後に中国国際航空の便があった。空席状況にも問題はなかった。

それから三十分ほどして技術開発部長が到着した。驚異的な早さでの到着だった。搭乗カウンターに向いながら店町はA4の封書を受け取った。内容証明郵便である。差出部署は栄陽電機の知的財産部となっていた。知的財産部長の肩書きの下に弁理士とある。

中身は十五件の特許侵害についての警告と、製品の販売停止を要求していた。見解を二週間以内に返答するようにと文面は占めくくられていた。抵触の根拠を示した資料が含まれているため、書面はかなり分厚い。

店町が回答期限を再度確認すると、実質七日後であった。技術部長もヨーロッパ出張帰りであったため書類の確認が遅れていたのである。本来社長に届けられるはずの書類が、気を利かせた配送担当社員によって技術部長のところに届けられてしまっていたのである。配送担当社員は、技術部長が社長とともにヨーロッパ出張に出ていることを知らなかった。

何はともあれ、店町が北京まで宗像を追うことになった。かつて特許問題で五千万円のアイデア使用料を出させた相手から逆に届いた警告状である。宗像が敏感に反応するのは間違いない。一刻も早く内容を知らせる必要があった。

北京出張の際の宗像の訪問先や宿泊先を誰も知らない。店町が知っているのは、北京空港のラウンジで要人に会うということだけである。

もうひとつだけ宗像の行き先を知る手がかりがあった。宗像から定期的にまわってくるカード支払い明細に記載されたホテルの名前である。店町はそのわずかな手がかりに期待をかけて日本を飛び立った。

店町は北京に向かう機内で警告書類に目を通した。アランドリーの売れ筋商品三品目が警告の対象とされていた。毎月の特許会議に出席して、知的財産に関して多少の心得のあった店町が見てもアランドリーにとって明らかに不利な内容だった。書類を持つ店町の手に力が入った。

北京国際空港に到着した店町は、入国手続きを済ませて空港のラウンジに急いだ。現地時刻で午後四時半を過ぎていた。

宗像の姿を探したがそこにはなかった。宗像が北京に到着してから既に二時間近く経過している。到着便が多い時刻とあって、ラウンジには人がたくさんいた。

店町は空港の建物から外に出てタクシー乗り場を探した。タクシー乗り場には行列ができていた。夕暮れ時が近づいた北京の気温は一気に下がりはじめた。氷点下に近い気温の中で、店町は薄いコートに背中を丸めてタクシーの順番を待った。

佳音のおかげで店町は多少の中国語を話すことができたが、まだ自信のない店町は、タクシーに乗って英語で行き先を告げた。運転手に英語は通じなかった。逆に中国語で、「わからないから降りろ」と言われて、慌てて今度は中国語で行き先を告げなおすと、「中国語が話せるならはじめから中国語で話せ」と言って運転手は車を発進させた。北京のタクシーも上海と同様に運転が荒い。ときに反対車線を走り、目の前を人が横切り急ブレーキを掛け、クラクションがあちこちから聞こえた。

空港から一時間ほど走ってヒルトンホテルに到着した。店町は急いでフロントに向かって「Munakata」という宿泊予約がないかを聞いた。

レセプショニストが調べている間、店町はロビーを見まわして宗像の姿を探した。答えは「ノー」だった。カード支払い明細が存在するということは、宗像は自分の名前で宿泊しているはずである。店町はもう一ヶ所心当たりのあるシャングリ・ラ・ホテルに電話を入れた。

「まだご到着されていませんが、ご予約はございます」との回答だった。

店町はヒルトンを出た。辺りは既に暗くなっている。さすがに耐えられない寒さだったため、店町はまず厚手のコートを手に入れることにした。

ホテルの側にブティックが並んでいた。その一軒に入って店町はコートを買った。

シャングリ・ラに到着した店町は、自分の腕時計の時刻が中国時刻よりも一時間進んでいることに気付いて、時計の針を一時間戻した。

宗像はまだチェックインしていないようである。店町はロビーが見渡せるラウンジの席で宗像の到着を待つことにした。社長は今夜間違いなくここに現れる。警告書類を手にしたときの宗像の反応を想像して店町は少し肩をこわばらせた。

午後八時を過ぎた。店町が玄関のドアを見ていると宗像らしき人物が入ってくるのが見えた。店町は即座に立ち上がって、書類を抱えて宗像のほうに向かおうとした。飲み物の支払いがまだだった。店町はレジの前で財布を取り出しながら宗像の姿を目で追った。

「あっ、えっ」店町は思わず声を漏らした。

宗像はひとりではなかった。要人とは到底見えない人物が宗像の横にいたのである。支払いを終えた店町は柱の陰に身を隠した。

宗像の横にいるのは若い女性だった。二十代前半と見えるその女性は、豪華な毛皮のコートを着ている。

店町は二人の様子を遠巻きに見守った。チェックインを済ませた二人は、エレベーターに向かった。ポケットに手を入れて歩く宗像の腕に女性は手をまわした。ごく自然な腕の組み方だった。親密な関係であることは容易に想像がついた。

自分が苦労して手配した宗像の入国ビザは、あの女性と会うためだったのかも知れない。今まで何度も急な予定で北京を訪問していたのは、実はあの女性に会うためだったのかも知れない。北京出張の際、宗像は見送りの店町のほうを振り返らずに出発ゲートに入っていく。店町はその理由がわかったような気がした。忠誠心たっぷりに真面目に働く店町に対して、宗像はどこか後ろめたい思いがあったのだろう。

宗像に怒鳴られた前日の朝のことを思い出して、店町は全身の力が抜けた。二人がエレベーターに乗って上階に消えても店町はしばらくその場所にいた。

店町は自分が泊まるホテルのことを考えていなかった。宗像に会えさえすればなんとでもなると考えていた。この状況でまさか宗像と同じホテルに泊まるわけにはいかない。店町は、すぐ近くに目当ての人物がいながら目的を果たせないでいる自分をもどかしく感じた。

帰りの航空券は翌日の午後に取ってある。それまでどのようにして過ごすべきか、開発部長に知らせる内容をどうしたものか、店町は思い悩んだ。そして今いる場所が日本ではないことを思って不安になった。来てはいけない場所で見てはいけないものを見てしまったのである。しかもその見た事実を、おそらく誰にも話してはいけないのである。

本社勤務初日に刈谷から聞かされた「ただし、見たものは、たとえどんなものだったとしても、自分ひとりの中にとどめておくこと」という言葉が店町の頭に鮮明によみがえった。

宗像が下りてこないうちに、店町はホテルを出ることにした。ふと佳音のことを思い出した。あまりにも急に決まった出張だったため、佳音に連絡を入れずに北京まで来てしまったのである。何も知らない佳音は心配しているに違いない。店町は国際電話で自分のマンションに電話を掛けた。いつもなら留守電になるまで電話を取らない佳音がワンコール目で電話に出た。

「今、北京にいる」

「何言ってるの。私、心配してたんだから冗談よしてよ」

「あまり詳しくは話せないんだけど、ちょっと事情があって本当に北京にいるんだ」

「嘘でしょ。北京のどこ」

「シャングリ・ラ・ホテル。あっ、このホテルにいることは誰にも言わないでよ。でも、本当に北京なんだ」

電話口の佳音は店町の言葉をまだ信じていない様子である。

「北京空港から赤色のボロボロのタクシーでここまで来た。分厚いコートもこっちに来てから買ったんだ。北京の十二月はめちゃくちゃ寒いね」

「本当に北京なの?」

「そう、本当に北京。笑えないけど、笑える。帰りの便は明日の午後だから、これから泊まるホテルを探さないといけないんだ」

「そこのホテルは駄目なの?」

「ちょっと事情があって駄目なんだ。それに宿泊料も高いし。佳音が以前留学してた大学ってどこだっけ? 中央戯……、何とか大学?」

「中央戯劇学院っ」

「そう、その近くにホテルある?」

「あると思うけど、そこからは少し遠いよ」

「安い?」

「大学が集まってる北京の郊外だから高くはないと思うけど、もう何年も前のことだから少し様子も変わっているかも知れないよ。でも、あまり安いホテルはやめたほうがいい。安全じゃないから」

「タクシーで中央戯劇学院って言ったら通じる?」

「通じなかったら字で書けば通じる、漢字そのままだから。でも、いったい何がどうなってるの? 急に北京だなんて。上海の間違いじゃないの?」

「詳しいことは帰ってから話すから、佳音は何も知らないことにしておいてよ。鞄ひとつで出てきたから、ちょっと不安だよ」

店町は、暗くなっても人通りの絶えない北京の街でタクシーを拾い、佳音がかつて留学していたという中央戯劇学院に向かうことにした。

中央戯劇学院前に到着したのは午後十時を過ぎていた。まず泊まれそうなホテルを探した。中国のホテルは、現地の人の紹介なしに泊まろうとすると少し割高になる。店町は、一泊三五〇元のホテルに決めた。日本からの客はほとんどいないようである。

身体は疲れていたが、店町は頭が冴えて眠れなかった。

日頃から社長は社員に対して、公私混同はいけないことだと厳しく指導している。その社長が仕事だと嘘をついて若い女性と会っている。まさかそんなはずはあるまい。何かの間違いだ、何か事情があってそうしているに違いない。自分はたまたまその瞬間を見て勘違いしているだけに違いない。

腕を組みホテルのエレベーターに消えていく二人の姿を実際に目撃しながらも、自分が見たものが嘘であると店町は考えるようになっていた。宗像の日頃の教えがそうさせた。宗像に対する限りない忠誠心が店町の解釈をゆがめ、そして疑念を薄れさせた。

ビザ申請に領事館を訪れたのがずいぶん前のことのように、店町は記憶の中から思い出していた。

夜明けの光が窓から部屋の中に差し込みはじめた。店町が泊まっている部屋は五階である。分厚い生地の重いカーテンを開いて店町は窓の外を眺めた。下の道路を歩いている人がいる。自転車やタクシーも行き交いはじめている。遠くからクラクションの音が聞こえた。北京郊外の夜明けは、静けさの中に一気に明るみはじめた。冷たい空気は乾燥しているようだった。細かな塵で遠くの空は少し霞んで見えた。

店町は朝食を済ませて、戯劇学院のキャンパスに向かった。

日本から離れた場所、佳音が生まれた育った北京、かつて佳音が歩いていた場所を店町は歩いている。佳音から聞いた色々な話を思い出しながら店町はキャンパスを歩いた。そこにいる学生たちはスーツ姿の店町を不思議そうな目で見ていた。

道路に出ると、砂ぼこりをあげて車が忙しく行き交っていた。店町はタクシーを止めて次の目的地に向かうことにした。清華大学である。中国政府に数多くの要人を送り出している中国ナンバーワンの大学、日本でいう東大、世界的には東大より上にランキングされている大学である。店町はこの大学をはじめから訪問したいと考えていたわけではなかった。佳音のことを考えながら歩いている際に、ふと行ってみたい衝動に駆られたのである。

「私ね、小さい頃から両親に、大学にいくなら清華だぞって言われ続けてたの。ずっとだよ。だから私、きっと自分は将来清華に行くんだ、そして偉くなるんだって思い込んでたの。でも、十四歳のときに日本に来たでしょ、人生って不思議よね。……私のお父さんね、北京の郵便局で局長をしていたの。清華を出てたらもっともっと偉くなれたのに、っていつも話してたの」

タクシーが清華大学の門の前に到着した。相変らずタクシーの運転手は無愛想である。

店町は運転手に十元紙幣を一枚手渡して、タクシーを降りた。石造りの大きな門に『清華大学』の文字が栄えていた。広いキャンパス内を歩くと、庭園にたどり着いた。池の水は凍っている。鞄を持つ手が冷え切っていた。

店町は宗像を追いかけてこの地に来ていたことを少しの間忘れることができた。店町はキャンパス内の少し洒落た中華レストランに入って、ひとり昼食を食べた。佳音が作る手料理に味が少し似ていた。

空港に向かうべき時刻が近づいてきた。すると店町は急に不安になった。北京まで慌ててやってきた本当の目的を達成できていないのである。この地に来てからの自分の行動を、開発部長に説明できる形にしなければならない。社長のことを探し続けていたことにしなければならない。店町は罪悪感に駆られた。

空港に着いてすぐに店町は国際電話を掛けた。

開発部の女性事務員が電話を取った。

「あっ、店町さん。もう日本なの?」

「いえ、今から日本に帰るところです。開発部長は?」

「お待ちですよ。ちょっと待ってね」

保留音が聞こえて、すぐに開発部長が出た。

「どうだった、店町君」

「それが……、心当たりのある場所をいろいろと探したんですが、結局見つけられませんでした」

「あぁ……。……。そうか」

開発部長はため息に似た声を漏らして黙ってしまった。

「八時過ぎに関空に着きますから、すぐに会社に戻ります。十時前になると思いますが、部長はまだいらっしゃいますか?」

「もちろんだ」

帰りの便は雨の関西空港に到着した。駐車場に止めてある車の数はずいぶん少なくなっていた。店町はセンチュリーに乗ってアランドリービルに戻った。

会議室のある九階以外、すべてのフロアの電灯がついていた。

「部長、すいませんでした。駄目でした」

「ご苦労様だったな。社長の戻りは明後日だったな。回答期限まで三日間か……。社長を空港まで迎えに行くとき、私も一緒に行くからよろしく頼むよ」

店町の頭には、シャングリ・ラで目にした光景が焼きついていた。毛皮のコートからすらりと伸びた細い足の女性。けっして誰にも話してはいけない事実。

店町は社長秘書という立場に明らかな価値を感じて日々過ごしている。宗像に仕えているという緊張感、宗像に守られているという安心感、宗像に信頼され特別扱いされているという充実感。それに会社の看板を背負っているという緊張感が合わさってそれらの思いは優越感へとつながっていた。

北京のホテルのロビーで目にした事実を誰かに明かすということは、その優越感を失うことになる。店町にとってその優越感を失う代償としての価値はそこには何ひとつなかった。

店町はシャングリ・ラで目にした事実を自分ひとりの中に閉まっておくことにした。

江坂のマンションに戻ると佳音が待っていた。

「ねぇ、いったい何があったの? 突然、北京だなんて」

「急ぎで社長に届けないといけない書類があって……」

「で、社長には会えたの?」

「……、いや。会えなかった」

「じゃ、何しに行ったの、無駄じゃない。社長の行き先、知ってたんじゃないの?」

「……」

「あまり聞かないほうがいいみたいね。ゴメンね、仕事のことあんまり聞いたら駄目だよね。真治は、仕事に厳しい人だもんね」

店町の心の中には、ある葛藤の思いがあった。自分の苦労は、本当に社長を愛人のもとへ送り込む手助けでしかなかったのだろうか。誰に会うのか、どこに泊まるのかを話さなかったのは、本当にそういうことだったのだろうか。代議士の第一秘書に頼んでまで手に入れた入国ビザは、仕事としての価値が本当にあったのだろうか。疑念が次第に大きくなり忠誠心を保てなくなりはじめている自分を店町は少し寂しく思った。

二日後、店町は開発部長を助手席に乗せて関西空港に向かった。道中の二人にほとんど会話はなかった。

宗像の到着が待ち遠しい様子で開発部長はゲートの前でそわそわしている。店町は宗像に会うのが怖かった。宗像の姿を見た瞬間、自分の気持ちがどう動くのか、今まで通りに素直に行動できるのか不安だったのである。

南出口から宗像の姿が見えると、いち早く駆け寄ったのは開発部長だった。店町もあとに続いた。

宗像は開発部長が固い表情で迎えに来ているのを見て少し身構えた。店町は迎えの挨拶とともに、素早い動作で開発部長の脇から宗像の荷物を受け取った。店町の身体は自然に動いた。ざわついていた気持ちはどこかへ消えて、不安な思いもきれいになくなっていた。宗像の姿を目にすると、まこと不思議なことに、すべてが理解の範囲に入ってしまったのである。

「それほど重要な事をどうして早く私に報告しなかったんだ」

宗像は開発部長から報告を受けて大きな声を出した。手には開発部長から受け取った警告書類を持っている。

「店町君が社長の次の便で北京まで追いかけたのですが、見つからなかったようで。私のビザが切れていましたから」と技術開発部長はフォローを入れた。それに対して宗像は、「そうか」とだけ答えて、それ以上は追及しなかった。

帰りの車中、宗像と開発部長は後部座席に並んで座った。

宗像は眼鏡を掛けて書面に目を通している。開発部長の緊張した様子が運転席まで伝わってくる。

「この相手には、回答期限を延ばしてくれと言う訳にはいかないから、回答期限は明後日ということだな」

店町にも社長のこの言葉の意味がすぐにわかった。かつてこの会社と特許問題でもめた際、宗像は先方からの回答期限延長の願いをけっして受け入れなかったという経緯があったからである。

「明日、特許会議をするから、関係者を集めてくれ。顧問弁理士もだぞ」

「はい。そのつもりで手配しています」と開発部長が答えた。

「店町君には記録係として参加してもらうから、よろしく頼むよ」

— 第15章 終 —