第13章 二つの関係
「店町さんって、すごく優しいですね。彼女にもこんなに優しいのですか?」
店町がお土産を小皿に取り分けてフロアの皆に配っていると佳音が言った。
「もっと優しかったりするかもね」
店町はホークを手渡しながらうれしそうに答えた。
それを聞いた佳音は「へぇー、店町さんの彼女って幸せですね」とだけ言って、それっきり黙ってしまった。佳音はパソコンのキーを黙々と打ち続けた。
店町は日々の業務をそれほど苦労なくこなせるようになっていた。時間的、精神的ゆとりが出てくると、周りに気を配るゆとりも生まれた。
店町がパソコン画面を眺めていると、斜め四五度前の席から電話を掛ける佳音の音楽的な北京語が時々聞こえてくる。その声が聞こえないと、店町は物足りなく感じた。佳音のことが気になりはじめたのである。
店町は月曜日が来るのが楽しみになっていた。最上階のお茶出し当番は、女性社員四名でローテーションが組まれている。月曜日は佳音である。海外事業部や社長宛ての来客が帰ると、当番の女性は給湯室で湯飲みを洗う。
給湯室は店町の席の斜め後方にある。少し離れた給湯室から扉越しに漏れ聞こえてくる湯飲みを優しく洗う音が心地よく店町の耳に届いた。
気が付けば店町はいつも佳音のことを考えていた。
そんなある日、店町は会社の帰りに佳音を食事に誘った。
店町より先に会社を出た佳音は、大阪駅の噴水広場で待っていた。
「おまたせ」
「遅いですよ、店町さん。変な男に二人も声掛けられたじゃないですか。女性をそんなに待たせるんじゃありませんよ」
「ごめん、ごめん。急な仕事が入っちゃったから。おいしいものご馳走するから、許して」
二人はグランドビルの最上階にある夜景のきれいな店に入った。少し高い場所から見下ろす大阪の夜景は、忙しい街の雑踏から遠く離れた所にある。店町の隣には素敵な佳音が座っている。
「それでね、日本に来るとき、私の姉たちは年頃だったでしょ。皆、彼氏がいたし。もう大変だったんですよ、日本なんかに行かないって」
「佳音さんにも彼氏いたの?」
「もちろんですよ。でも、日本行きが決まったら、すぐにポイ」
「えっ、そんな」
「だって、もうどうしようもないんだから、いつまでもくよくよしてても仕方ないでしょ、時間の無駄」
「はっきりしてるね」
「そう。それが私の取り得かな」
「店町さんって、まだ二年目ですよね。それにしたら凄いですね。社長からの信頼も厚いみたいですし。あの社長の教えってK&Yの会長さんのものだって聞いたことがありますけど、以前、私、K&Yのお仕事していたことありますよ。中国向けの製品のナレーションのお仕事。十分以内だったら、五万円くらいだったかな。でも、私が所属していたプロダクションには年収一千万円以上の人が何人もいたんですよ。凄いでしょ、一千万ですよ、一千万」
「そんな仕事してたんだ。でも、どうしてその仕事続けなかったの? もったいない」
「あんまり安定した仕事って言えないしね。でも、次の年にそこの雑誌の表紙にしてもらえる予定だったんですけどね、ちょっともったいなかったかな。FMこころのレギュラーのお誘いもあったし」
「もったいないなぁ」
「でも、全然後悔してませんよ。楽しい経験だったし」
「そういえば、佳音さんって京大出身だったよね」
「京大っていっても、一年浪人してからですよ。たまたま運が良かっただけ。入ってからも休学したりしてたし」
「へぇ、休学して何してたの?」
「北京に留学してたんですよ。私ね、小さい頃から女優になりたいって夢があったんです。両親は、中国のいい大学に入れって勧めてたんだけど、途中で日本に来ることになったから、それからずいぶん変わったな」
「女優の夢だったら、以前いたプロダクションで実現してたんじゃないの?」
「あれは違うの。ナレーションがメインだったから。私がなりたかったのは、映画女優。中国映画で空を飛ぶ主役になりたかったの。だから北京の大学に一年間留学してたの。中央戯劇学院って言うんだけど、そんな大学知らないよね。でも私、たくさん遊んじゃったから、全然駄目だった」
「へえ、そうなんだ。僕が知らない世界をずいぶん知ってそうだね」
店町は手に持っていたガーリックトーストを置いて、おしぼりで指先を拭いた。
「女優志望だけあって、佳音さんってきれいな手してますね」
店町が佳音の手を取るそぶりをすると、佳音は照れくさそうに手を引っ込めた。
「そんなことないですよ。ほら。でも、私の姉は手のモデルをしてたことありますよ、化粧品会社か何かの」
「モデル一家なんだ」
「そういえば、二番目の姉もミスキャンパスか何かに選ばれてたかな。そう、手で思い出しましたけど、私、手相を見てもらったことが何度かあったんですよ。お金出して見てもらったんじゃなくて、みんな占い師さんのほうから近づいてきて、是非手相を見せてくれって。北京で電車に乗ってたら、突然どこかのおじいさんが近づいて来るんですよ。私、怖くって怖くって。あなたは運がいい人だ、こんな人に出会えるのは珍しいって。それが、何度もあったの。日本に来てからもですよ。お金は要らないから、手相を見せてくださいって。私、人をあまり信用しないから、はじめは断ったんですけどね。どうしてもって言うからちょっと見せたら、その占い師さん興奮しちゃって。あなたは栄養たっぷりの大地に根を張った運のいい人だ、こんな人はめったにいない、だって。ただの普通の人間なのにね」
佳音を駅まで送ったあと店町はすぐにメールを送った。
『今日はすごく楽しかった。ありがとう。さっき言い忘れたけど、明日も会いたいんだけど…… 店町』
しばらく返事は来なかった。明日は土曜日である。
店町がマンションに戻ってシャワーを浴びて出てきたときにメール着信音が鳴った。店町は慌てて携帯に飛びついた。
『明日は先約ありなの! ゴメンなさい。 かのん』
これは拒絶のメールなのかどうなのか。今日楽しかったのかどうなのか。店町は佳音のことを好きになっている分だけ返ってきた短いメールの理解に戸惑った。
翌日、店町は朝から会社にいた。佳音から断りのメールが来てから落ち着かなくなってしまったのである。少しでも気を紛らわそうと、会社に出てきたのだった。溜まっていた朝礼記録のテープ起こしをしながら、店町はどこかしら上の空になっていた。夕方になって、店町は我慢できなくてまた佳音にメールを送った。
『明日、日曜日のご都合はいかがでしょうか? 仕事中の店町より』
するとすぐに返事が入った。
『明日はオッケーよ かのん』
佳音は約束の時刻に五分遅れて現れた。店町は近ごろ人を待つことを心地よく感じるようになっている。十月に入っていたが、まだ九月初旬を思わせる暖かさである。佳音は黄色地に白い花柄のワンピースを着て白い帽子をかぶって現れた。会社に着てくる洋服とは少しイメージが違う。遠くから歩いてくる腰のラインが美しい。
「へぇー。店町さんって、いつも手帳持ってるんだ」
「そう。休みの日でも仕事に縛られっぱなし」
「働いている店町さんって格好いいよね」
「へぇ、そんな風に見えてるんだ。仕事してない今は?」
「うーん、いまいちかな」
「ガクッ」
「嘘うそ」
二人が歩きながら笑っていると、店町の携帯が鳴った。
「もしかして彼女からだったりして」
「まさか」
店町は携帯を開くのを少しためらった。岡山の製薬会社で夜遅くまで仕事をしている直子は休日に電話を掛けてくることが多い。
一呼吸置いて店町が携帯を開くと、液晶画面には『アランドリー本社』と表示されていた。
「はい、店町です」
店町の声は反射的に仕事の声になった。その素早い変わりようを見た佳音は悪戯っぽい笑みを浮かべて店町の顔を覗き込んでいる。店町は人差し指で「しーっ」というポーズをとったあと、ゴメンのポーズをした。
「えっ、今からですか……。ちょっと……、今すぐは無理です。はい。今、遠くにいるんです」
目の前にいる佳音とのデートを取りやめるわけにはいかない。取りやめたくはない。店町はとっさに嘘をついた。
「えっ、今ですか。名古屋です。親戚の法事で名古屋にいるのです」
店町は少し固い表情で電話を切った。店町はこのときはじめて仕事に手を抜いた。ほんの少しの罪悪感が店町の表情を固くした。
「ねぇ、もうちょっとおしゃれな嘘はつけないの? 不器用なんだから。私とのデートが法事だなんて失礼じゃありませんっ? 名古屋っていうところまではよかったんだけどね」
店町は映画館に入ると同時に携帯の電源を切った。手に持っている手帳が店町に仕事のことをときどき思い出させたが、佳音の横顔がそれを消し去った。
二人は映画を見たあと、梅田の地下街で少し買い物をした。
「あっちのほうにブランドショップがたくさんあるから少し歩こうか」
「いいわよ。ハービス大阪のほうよね」
店町はそれまでブランドショップなどに積極的に足を踏み入れたことなどなかった。むしろ苦手な場所だった。けれども今回は佳音を誘ってそちらに向かう必要があったのである。ハービス大阪の隣にザ・リッツ・カールトンホテル大阪がある。店町は今日のためにレストランを予約していたのだった。
二人はいったん地上に出て、立派な木製の扉を開いてリッツ・カールトンの中に入った。
かつて宗像に付き添って訪れたときの入り口と違う扉から入ったため、店町は位置がわからなくなっていた。
「えーっと、レストランはどっちだったかな」
佳音が隣にいるため店町は落ち着いている振りをした。
「もしかして、今日はイタリアンをご馳走してくれるの?」
「えっ。そうだよ」
「うぁ、うれしい。私イタリアン大好きなの。確か、あそこを左に曲がったところだったかな」
「へぇー。このホテルのこと知ってるんだ」
「以前ナレーションのお仕事をしてたって言ってたでしょ。そのころ、よくここのホテルでパーティがあったの」
「へぇ、そうだったんだ。そういう仕事をしていたから佳音さんはこういう場所に慣れてるんだ」
「そんなことないですよ。結構どきどきしてるんだから」
窓際のテーブルで二人はグラスワインを手に乾杯をした。
ギターの生演奏が響く中、二人はゆったりと食事をとった。佳音は映画の話をした。少し緊張気味の店町は言葉数が少ない。
「そんなに見つめないでくださいよ、店町さん。私の顔、何か付いてます?」
「あ、いや、ごめん。佳音さんってこういう落ち着いた雰囲気が似合うなって」
佳音は照れくさそうに店町から目をそらして話しを続けた。
佳音は紅茶、店町はコーヒーを飲んでいる。デザートを食べ終えて、店町が腕時計を見ると午後九時を少しまわっていた。
宗像に同行して何度も来たことのあるホテルであったが、今日、店町の隣にいるのは女性である。店町はいつもとは違う緊張を感じていた。
「ちょと、お化粧室行ってきますね。お化粧室どこだったかしら?」
佳音が声を掛けたホテルの女性は、丁寧な対応で佳音を案内した。
店町はロビーのソファに腰を下ろして高級ホテルの雰囲気を味わっていた。横にある暖炉で火が燃えている。壁に掛けられた絵画、足元に敷かれている絨毯、木の台の上に置かれている花瓶、それら目に映るすべてが本物である。店町は宗像の鞄持ちとしてはじめてこのホテルを訪問したときのことを思い出していた。
「店町さん。お待たせ。ここのホテルって対応がいいですね。お化粧室の場所を聞いたら、さっきの女性の方、私をお化粧室の前まで案内してくれたのよ。すごく丁寧」
「そう。ここのホテル、世界で一番サービスのいいホテルらしいよ。だから今日はここを選んだんだけどね。化粧室の場所を聞いた相手がホテルの総支配人だろうが社長だろうが、皆同じ対応をするらしいよ。玄関の前に立ってるドアマンなんて車のナンバーを見ただけで誰が来たか判別できるんだから。センチュリーのドアを開けながら宗像様っいらっしゃいませ、ってすごいんだから。感動するよ」
「へぇー、店町さんってそういうのに憧れがあるんだ」
「えっ、いや」
店町は、佳音からそう指摘されてはじめて自分がそういう上流階級的待遇を受けることに一種の憧れを抱いていることに気が付いた。
二人が玄関の扉に近づくと、ドアマンがタイミングよく扉を開いた。それに合わせるように佳音が店町に腕を組んできた。
「勘違いしちゃ駄目ですよ。こういう立派な扉を通り抜けるときは、こういう雰囲気のほうが似合うでしょ」
佳音は微笑みながら、店町の腕に絡めた手をすぐに解いた。
「梅田まで少し歩こうか」
佳音は笑顔でうなずいた。そしてバッグの中からストールを取り出して肩にまとった。女性的な優しい肩のラインをピンク色の生地が包んだ。店町は少し下がって、佳音の後姿を見つめた。
「店町さん、どうかしました? 歩くの遅いですよ」
「いや、別に……」
しばらく歩いて駅に近づいた辺りで店町が小さな声で言った。
「さて、これから二次会」
佳音は聞こえなかったのか、わざと聞こえない振りをしたのか、この言葉には何も反応しなかった。
「ここの駅って、広くて人が多いでしょ。でもね、中国ってもっと広い駅で人が沢山いるのよ。きっと店町さん驚くと思う。人だらけなんだから。あっ、そっか、上海工場によく出張しているから知ってるよね」
店町はもう一度誘うべきかどうか迷っている。
その困った反応を楽しむかのように佳音が聞いた。
「店町さん、お酒飲めないのに二次会?」
聞こえていたのである。
「そう、二次会。江坂で二次会」
「江坂って店町さんが住んでるところじゃなかったっけ? なんだか危険な香りがするな」
「いや、そんなことないよ、全然、全然。ほら、二人分地下鉄の切符も用意してあるから」
「計画的犯行ってわけか」
翌朝、佳音は店町と一緒にマンションを出た。店町の出社時刻は、佳音よりも一時間ほど早い。
「彼女居るんでしょ。本気になっちゃダメだよ、真治くん」
とても自然な名前の呼び方だった。
「私、モーニング食べてから会社行きますね」と胸元で軽く手を振って、佳音は新大阪駅構内の喫茶店に入っていった。
店町は会社まで歩く間、昨夜のことを思い出していた。佳音の白い肌はきめ細かく滑らかで温かかった。喫茶店でモーニングを食べる佳音も昨夜の出来事を思い出していた。店町がブラジャーを外す動作は優しく素早かった。普段会社で目にする仕事の身のこなしにどこか似ていた。いや、普段の仕事以上かも知れない。そんなことを思い浮かべながら佳音は氷の入ったアイスティーのグラスを傾けた。
そろそろ佳音も会社に行く時刻である。この服装で会社に行くのはちょっとまずいかな。そう思いながら佳音は会社に向かった。
佳音はゆっくりドアを開いて秘書室の中に入った。佳音が「おはようございます」と控えめに挨拶をすると、店町はいつもと変わらない平然とした表情で挨拶を返した。目が合った瞬間、佳音は気まずく目をそらしてしまった。佳音は、しまったと思った。真治ずるい、そんなに見つめるなよ。そんな思いで佳音は自分の席についた。
店町以外の社員たちは少し驚いた様子で佳音の洋服を見ている。
田丸が分厚い書類を持って秘書室に入ってきた。いつもならそのまま社長室に勢いよく入っていくのであるが、佳音の服装を見た田丸は一瞬足を止めて佳音を睨みつけ、そして社長室に入っていった。
しばらくして田丸は宗像とともに出てきて、わざと大きな声でこう言った。
「ほら、社長、あの子の服装、注意したほうがいいですよ。あれは会社に来るには派手過ぎでしょう。ここはブティックじゃないんですから」
店町は後ろから聞こえる田丸の声に気まずくなった。自分のせいで佳音は昨日と同じ服を着ている。社長は何と答えるだろうか、怒らないだろうか。
すると、宗像の口から出たのは皆にとって意外な一言だった。
「いや、いいんじゃありませんか。おしゃれすることはいいことです。素敵な女性はおしゃれしたらいいんです。ねぇ、木村さん」
社長の一言で場の緊張は一気にほぐれた。
その日以来、田丸が秘書室を通り抜ける際の佳音を見る目つきはより鋭いものになった。
店町は頻繁に佳音を食事に誘うようになった。佳音もまんざらではない様子である。仕事が終わるのが遅い店町を気遣って、佳音がマンションの鍵を預かって夕食を作って待っていることも何度かあった。店町は、そんな優しい佳音に惹かれている。岡山に住んでいる直子への連絡も減っていた。直子が店町に会いに来るときには必ず事前に連絡がある。店町が直子に会いに行くときにも必ず連絡を入れてから会いに行く。そのスタイルが定着していたから、店町はある昼休み、合鍵を作って佳音に手渡した。佳音も自宅から会社に通うよりも店町のマンションから通ったほうが時間的に便利だったため、二人は自然な流れで同棲をするようになった。当然のことながら会社の誰もそのことを知らない。二人はその共有している秘密を一種のスリルとして楽しんでいた。
そんなある金曜日の夜、店町と佳音がソファで身を寄せ合って映画を見ていると、ドアを小さくノックする音がした。店町はとっさにテレビの音量を下げてドアのほうを見た。また、ノックする音が聞こえた。聞き覚えのあるノックの仕方である。直子に間違いない、と気付いた店町は佳音のほうを見て、ヤバイという顔をした。佳音も誰が来たのかにすぐに気付いたようである。
鍵を取り出す音がドアの向こう側から聞こえた。店町はとっさに立ち上がり、玄関から見えないキッチンのほうに佳音の手を引いた。
玄関には佳音のブーツが置いてある。それに気付いた店町は、慌ててブーツを手に取り洗面所のほうに隠した。
鍵をカチャリと開ける音がして、玄関の扉がゆっくりと開いた。
「直子」
「なんだ、真治いたんだ。返事してくれたらいいのに」
「急に来るなんて、どうしたの」
「連絡しようと思ったんだけどね、せっかく合鍵持ってるんだから、たまには使ってみようかなって。もう二ヶ月近くも会ってないでしょ、私たち。脅かしちゃおうかなって」
店町は自分の後ろが気になっている。佳音が顔を出さないだろうか、隠したブーツは見えていないだろうか気になって仕方がない。
「直子、ごめん。これからまた仕事に出ないといけないんだ。ちょっと外で待っててくれないかな。すぐに準備するから」
「今から仕事? もう九時をまわっているよ。部屋に入っちゃ駄目なの? どうかした、なんか、真治変だよ」
キッチンで物音がした。
「誰かいるの? 真治」
「いや、誰もいない」
「でも、音がしたよ。やっぱり、変」
「ちょ、ちょっと待って。五分だけ待って」
制止しようとする店町の手をほどいて、直子が玄関から中に入ってきた。洗面台の前にブーツが置いてあるのを見て、直子は少し立ち止まったが、何かを確信して部屋の中に勢いよく入っていった。
キッチンに佳音が立っている。
「はじめまして」
佳音が落ち着いた声で直子に挨拶をした。いつの間にか佳音はエプロンを着けていた。その姿を見た直子は、しばらく呆然と立ち尽くし、何も言わずに外に駆け出した。
店町は、どうしていいのかわからずにそこに立っていた。
「真治。追いかけてあげて」
佳音にこう言われても店町はすぐには直子を追わなかった。
「追いかけてあげて。彼女岡山からわざわざ真治に会いに来たんでしょ。もし、何かあったらどうするの」
店町は佳音に促されるようにして外に出た。このような状況になったとき、どう行動すればいいのかを店町は知らない。テレビドラマなどで目にしたことのあるシーンではあるが、そのとき男が取った行動のうちいったいどれを参考にすればいいのか、店町はわからずにいた。飛び出して行った女性をまず追うべきなのだろう。そして苦し紛れの言い訳をすべきなのだろう。たぶん、だろう、という思いで店町は直子を追った。
直子が部屋を走り出てから三分ほど経過していたが、直子はまだ江坂公園のポプラ並木の途中を歩いていた。店町が追ってくるのを待っているような歩き方だった。
「直子、ごめん」
直子は店町の呼びかけに立ち止まらずに、前を歩き続けている。
店町は直子の腕を取って振り向かせてもう一度言った。
「直子。ごめん」
直子はうつむいたまま黙っている。
「ごめん……。いつか言わないといけないって思っていたんだ」
しばらく沈黙が続き、直子はこう言った。
「私。気付いていたんだ。こんなことじゃないかなって。自分の目で確かめたかったんだ。もしそうだったとしたら、私のほうから真治にお別れを告げようって考えてたの。だからね、今日黙って来たの。でも、どうして私、泣いてるのかな……。おかしいよね私。ごめんね」
店町は直子の顔を見ながら何も言えずにいる。
「あの子のこと好きなんだよね。真治。あなた、優しいから、今まで私にそのことを切り出せなかったんだよね。……私ね。真治が今の会社に就職するって言ったとき、本当は別れようって考えてたの。私ね、真治には大手の製薬会社に就職して欲しかったの。そしたら将来、私の父の会社継げるでしょ。父もそれで真治との交際を認めてくれてたの。真治もそのこと知ってたでしょ。真治の就職のことを話したとき、父はね、そんなやつとは早く別れろって言ったのよ。だから、私。自分の中でブレーキを掛け続けてたの。父の前では私たち別れたことになってる。……でも私、別れられなかった。真治のこと好きだったから。今でも好きだから別れたくないの。あなたが選んだ道だから、あなたが決めたことだから、私、あなたを応援したいと思ってるの。でも、もう遅いんだよね……」
直子の言葉を聞いて店町の心は直子のほうにかすかに揺れた。大阪-岡山というけっして近くない、それでいて遠すぎない微妙な距離が、時間の経過とともに二人の距離を遠ざけていた。
会社に行けば声の聞こえる距離に佳音がいる。家に帰れば佳音が料理を作って待ってくれている。直子との長い交際期間も、その距離に打ち勝つ力を既に持ち合わせていなかった。佳音との関係が軽い気持ちによるものだったとしたら、店町は何のためらいもなく直子のもとに戻れただろう。直子もそれを望んでいたはずである。けれども、店町は既に自分ではどうすることもできないほど佳音のことを想うようになっていた。
黙ったまま何も話さずにいる店町に対して直子は、念を押すように聞いた。
「あの子のこと、好きなんだよね。私と別れたいって思っているんだよね」
店町は小さく頷いた。
その様子を見て直子は、力なくため息をついた。そしてしばらくして直子はこう言った。
「あの子のことが好きでもいい。嫌いになってなんて言わないから、私をもう少し、もう少しだけでいいから真治の側にいさせて。私、真治のことが好きなの。今まで離れてたから気付かなかったけど、私、真治じゃなきゃ駄目なの。……ねえ。駄目?」
「……もう。無理なんだ」
店町はゆっくり顔を上げて言った。そして、近くのベンチに腰を下ろした。直子も隣に座った。
二人の間に沈黙が続いた。
沈黙を破ったのは、直子のほうだった。急に立ち上がって、
「わかった。今までありがとう、真治。元気でね」
ほんの一瞬、店町の目に直子が輝いて見えた。それは強がりが放つ独特の光だった。
「駅まで送ってく」
「見送りなんかもういらないから。もう今から他人同士なんだから」
直子が発した他人同士という言葉が店町の心に痛く響いた。自分は直子に対して、とても残酷なことをしてしまったのかも知れない。店町の口から次の言葉はでなかった。
駅のほうに歩いていく直子の後姿を、店町は静かに見ていた。直子の後姿に、何かを期待するかすかな色がまだ少し残っているようだった。
曲がり角で、直子は最後の期待を込めて、うしろを振り返った。彼女の視界に店町の姿はもうなかった。遠くマンションの中に走り込んでいく人影がかすかに見えた気がした。
店町が部屋を出てから三十分以上が経過していた。店町は階段を駆け上がって自分の部屋へと急いだ。
扉のノブに手をかけて、店町は扉を開くのを少しためらった。急に怖くなったのである。もしかしたら、この瞬間、自分は一度に二人の女性を傷つけ、失ってしまったかも知れない、という思いが湧き上がってきたのだった。部屋の中に佳音の姿はないかも知れない。
店町は、ひとつ大きく息をして扉を開けた。部屋の中は静まり返っている。ついていたはずのテレビも消えている。佳音の姿はそこになかった。部屋の中はきれいに片付いていた。店町はすぐに佳音の携帯に電話を掛けた。電源が切られているようで、通じなかった。
店町は部屋の中を落ち着きなく歩いた。洗面台のコップに二本並べて立ててあった歯ブラシの一本が、脇のゴミ箱に捨てられている。店町が隠した佳音のブーツもそこから消えていた。
店町は佳音の自宅を知らない。いつも利用している最寄の駅までしか知らない。佳音は店町の知らないどこか別の場所に行ってしまったのである。
と、そのとき固定電話のベルが鳴った。店町は勢いよく受話器を上げた。
「はいっ」
「真治、わたし」
「あぁ……」
「さっきは、ごめんね」
聞こえてきたのは直子の声だった。
「彼女、まだそこにいるの?」
直子は明るい声を装っていたが、隠し切れない寂しさが受話器から伝わってくる。
「え、うん。まだいる」
「そう……。じゃ、もう邪魔しちゃ駄目だよね、そうだよね。もう切るね。今までありがとう。新しい彼女に、ごめんなさいって」
受話器の奥から、新大阪駅のアナウンスが聞こえた。店町は、受話器を静かに置いた。そして、もう一度上げて、今度は勢いよく投げつけるように置いた。
店町は外に出て佳音が住む家の最寄の駅へと向かった。駅を出た店町は佳音の姿を探してしばらく歩いた。人通りはほとんどなかった。道路の一部を照らしている自動販売機の照明以外にほとんど明かりはなかった。静けさの中、自販機のモーターが動く音が低く響いていた。
店町は最終電車に乗って江坂駅に戻った。数時間前、直子と別れた場所を通って江坂公園の中に入った。店町が見上げた夜空には月は出ていなかった。
部屋に戻った店町は、眠れぬ夜を過ごした。翌日も、その次の日も何度も佳音の携帯に電話を掛けたが、結局連絡の取れないまま月曜の朝を迎えた。
佳音が出社する時刻が近づいた。店町は平静を装っていたが、心の中は落ち着かない。
電話が鳴り、ワンコール目で北野が受話器を上げた。
「あ、佳音さん。おはようございます。どうかしました?」
店町は、その電話を注目して見ていた。
「はい。わかりました。大丈夫? 無理したら駄目よ、お大事に」
佳音から入った電話は会社を休むという連絡だった。またひとつ、期待通りに行かないもどかしさを店町は味わった。店町は仕事が手につかなくなっていた。マンションにひとり帰ると言い知れる寂しさと不安とが店町を襲った。店町は自分がどれほど佳音のことを好きになっているのかに改めて気付いたのだった。
午後十二時を少し過ぎた頃、ドアの鍵が開く音がした。三日前の情景が店町の頭の中に浮かんだ。ドアを開けて入ってくるのが佳音であってほしい。店町はそう願った。
ドアの前に立っていたのは佳音だった。
「お帰り、佳音。ごめん」
「私、別に帰ってきたわけじゃないですから。忘れ物を取りに来ただけですから。それに、私の家、ここじゃないし」
店町が佳音の手を引いて部屋に入れようとすると、佳音はその手を拒んだ。
「私に触れないでください。忘れ物見つけたらすぐ帰りますから」
佳音は店町に対してよそよそしい態度を取った。
「何を探しているの?」
「何だっていいでしょ。あなたには関係ないんだから」
「佳音。ごめんね」
「何が?」
「直子とはきっぱり別れたから」
「あ、そ。それはよかったですね。おめでとうございます」
店町が何を言おうと佳音のよそよそしい態度は変わらなかった。
「忘れ物、ないみたいだから、私帰ります」
「でも、もう電車ないよ」
「そうですか。じゃ、私今晩ここで泊めてもらいますけど、私に触れないでください。私、こっちで寝ますから」
佳音はソファに腰をおろした。
「そっちで寝ると身体痛くなるから、僕がそっちで寝るから佳音はベッドを使ってよ」
「そんなに優しい振りしても駄目ですよ。でも、せっかくだから、私、ベッドのほうを使わせてもらいます」
ベッドに移動した佳音は、落ち着かない様子で自分の髪の毛をしきりに触った。
「それに店町さん。以前私をお茶に誘ったとき、あなたコーヒーフロート頼みましたよね。あれいけてない、もう全然いけてない。ストレートティを飲んでる私の前で、どうしてあなたのコーヒーにはアイスクリームが浮いてるのよ、あれダサい、ダサ過ぎ」
「どうして今頃そんな前のこと」
「どうしてって、一度言っとかなきゃ気が済まなかったのよ」
佳音は洋服のままベッドに横になった。
しばらくして店町は部屋の電気を消してソファに横になった。
店町はソファの上で目が冴えていた。
三十分ほどして佳音の寝息が聞こえてくると、店町は佳音を起こさないようにそっと静かにベッドに入った。店町が佳音に腕を絡めると、佳音はそれに応えた。佳音はまだ眠っていなかった。
寂しさと不安とを味わっていた店町は、そこから抜け出すかのように佳音の身体を激しく求めた。
二人は陶酔した。佳音の白い肌に店町の手が優しくそして激しく触れた。佳音のやわらかい髪が店町の内ももに軽く触れ、そのリズムは次第に早くなった。佳音が店町の上にまたがり、二人は同時に小さく声を漏らした。そして二人は朝まで離れることはなかった。
