第20章 真実という言葉
店町は社長室の扉の前に立った。入社間もない頃にプレゼントされたネクタイの結び目を軽くつまんでひとつ大きく息をして、そしてドアをノックした。
「はい」
いつもの低い宗像の返事が扉の向こうから聞こえた。
「失礼します」
店町は扉をゆっくり開いて中に入り、ノブに手をあてがってドアを丁寧に閉めた。
「イスを持ってきて、そこに座りなさい」
店町は商談テーブルから革張りのイスを移動させて、デスク越しに宗像の真正面に立った。意識的に真正面に立ったのである。店町が宗像の真正面に立つのは、入社式の際に決意表明したとき以来だった。
『秘書たるもの社長の視界を妨げるべからず』という刈谷の教えを忠実に守り、スケジュール確認の際や、報告の際にも宗像の真正面に立ったことはなかった。
「座りなさい」
立ったままでいる店町に対して、宗像は書類から顔を上げて眼鏡をはずして言った。店町が自分の真正面に立ったことを宗像はなんとも感じていないようである。
「また会社を辞めたいと言い出しているんだって。総務部長から聞いたよ」
店町は宗像の顔を見つめた。
「実は、私。結婚したいと考えている女性がいます」
このひと言は、店町がこの日のために選び抜いて準備した言葉だった。店町の顔は固いままだった。これから何がはじまろうとしているかを知らない宗像の表情は、結婚という店町のひと言で少しやわらかくなった。
「ほう」
関心とも質問とも取れる音が宗像の口から漏れた。
「その女性というのが、社長もよくご存知の方です」
店町はそう言って一呼吸おいた。
宗像は店町の話しに明らかに興味を示している。
「木村佳音さんなんです」
少し間があいて宗像は、
「キムラカノン? 誰だそれ」と言った。
たじろぐ表情を見逃すまいと考えていた店町の予想に反して、宗像は平然としている。
「この海外事業部で上海工場の業務に携わっていた木村佳音さんです」
店町は声を少し大きくした。
「キムラカノン? ……はあ、誰だったかな。知らない」
宗像は少し首をかしげる仕草をしたが、一瞬泳いだ目を店町は見逃さなかった。
店町は再度念を押すように隣の秘書室を指差して、「あの部屋のドア寄りの席に座っていた女性です!」と強い口調で言った。
「知らない。誰のことを言っているのかさっぱりわからない」
宗像の表情は明らかに変化している。思い出そうとしている表情ではなかった。会議の中で時折見せる厳しい表情である。
「あ、あー、思い出した。木村さんね、数ヶ月前に突然辞めた」
この言葉を発したかと思うと宗像の態度は一変した。まるで開き直ったかのように、そして今までになく険しい顔になり、店町を睨みつけるようにして早口にこう言った。
「木村さんは嘘が多いから気を付けたほうがいい。あんな人間の言うことを信じてはいけない。何でも、私が出張から帰ってきたら、私が彼女を誘惑した、なんて彼女自身が言いふらしていると言うじゃないですか。頭がおかしいですよ、あの女性は。結婚なんてしないほうがいい。君の身のためだ。あの女性は嘘つきですよ。入籍なんかしたらそれこそあなたの人生の終わりですよ」
店町の表情は固く凍りついた。宗像が発した言葉は、店町の理解の範囲を明らかに超えていた。店町はこの日を準備周到に迎えたつもりであったが、宗像のこの言葉に切り返す言葉を持ち合わせていなかった。
店町は宗像の顔を見つめたまま、次に自分がどうすべきなのか、何と返すべきなのか、言葉を見つけられないでいた。
その様子を見た宗像は、なおも佳音のことを罵倒し続けた。それは早口で、残酷な言葉の容赦ない攻撃だった。もはや店町には現実から遠くはなれた別の世界で繰り広げられている現象に感じられた。
店町は真面目過ぎたのである。素直過ぎたのである。
『そうだったのか。すまなかった。店町君の思いはわかった。私が間違っていた』という答えが返ってくることを店町は真面目に期待してこの日を迎えていたのだった。入社間もない頃にプレゼントされたネクタイを締めてこの日に臨んだことが、その素直な期待を物語っていた。自分は宗像から誰よりも信頼されている。その思いが強かった。実際店町は、そう成り得るだけの努力はしていたし、宗像の期待にも応え続けてきた。他の誰よりも宗像に対する忠誠心は高かった。宗像から要求されたことには何の疑いもなく忠実に従う自信があった。自分に対しては、宗像は正直に話してくれる、自分が尊敬する宗像という男は、常識から少し外れた生き方を好みはするが、必ず最後は踏み外した道を正し、悪かったことを反省することのできる男のはずである。宗像が事実を認め、自分にだけ『すまなかった』というひと言を残してくれたならば、店町は今回の事件を終わりにできると考えていた。もう追及する必要はなくなると考えていた。人はときに間違いを犯すこともある。被害にあった本人ももう何も望まないと言っている。自分も転職先が決まっている。あとは自分が納得できる正直な答えを返してくれるだけでいい。あとになって、周囲に言いふらすような卑怯な真似は決してしない。事実を闇に消し去ることができる。その覚悟は店町には既にできていた。自分も許せる。人間の持つ優しさとはそういうものだと店町は信じていた。今、目の前にいる男からそう学び続けてきた。自分がこの場を去るだけですべて終わりにできる。正直な答えさえあれば、かつて尊敬した対象のままでこの先も進んでいける、店町はそう思い信じていた。
だが宗像は臆病だった。人間としての心を捨て去り、我が身を守ろうとした。目の前の青年が自分のことを一番慕ってくれていると知りながら、その青年の心を踏みにじり、ずたずたに切り裂いたのである。
宗像が店町に対して発した言葉は、自ら自分を許さなくていい、と言ったようなものである。許してはいけないという事実が発生した以上、店町もその方向に気持ちを切り替えなければならなくなった。しかし店町の中にはその準備は何ひとつ整っていなかった。店町は社長室のドアをノックする前から既に許すことしか考えていなかったからである。その差はあまりに大きかった。店町の心はざわついていた。店町はその感情を読み取られまいと無表情のまま、宗像の顔を見続けていた。
事件の細部まで知っている店町に対して、まるで店町が無知であるかのように宗像は攻撃をつづけた。
宗像の容赦ない言葉の攻撃を受ける店町の脳裏に、『攻撃は最大の防御なり』という言葉が浮かんだ。店町の冷静さはわずかに保たれていた。
「それでは聞くけど、店町君は彼女から何と聞いているんだ」
宗像は、不気味に平静なままでいる店町に対する攻撃の手を休めた。
「すべて知っています。昨年末から彼女と一緒に暮らしていますから」
この答えに対して宗像は無反応だった。
それを見て店町は続けた。
「五月二十一日、月曜日。午後六時半に中央郵便局前で社長は木村佳音さんと待ち合わせをされましたね。私が第三ビル横までお送りした日です。待っているときに彼女が私に送ってきたメールもちゃんと残してありますから。社長がどこに車を止められたかも知っています」
店町は手探りの攻撃に転じた。宗像がその日どこに車を止めたかなど実際には知らなかったのである。
「彼女がメールを送っていたのを私も知っていますよ。君に対してだったのか」
佳音がメールを送ってきたのは、大阪駅に移動する電車の中からだったはずである。宗像は知るはずがない。宗像は明らかに嘘をついている。
「確かに食事には出かけましたよ。給料のことで相談があるからって、向こうから言ってきたから、忙しい中時間をとってあげたんだよ。それが何ですか、私が誘惑したと言い出すとは」
「中国語をレッスンして欲しいと社長は何ヶ月も前からお願いされていたそうですね。私、全部聞いてましたから。北野さんだって社長の行動がおかしいって相談を受けてましたから」
「何を言っているんだ君は。確かに中国語をレッスンして欲しいと言ったことはありますよ。当然じゃないですか、中国に立派な工場を持っているわけだから、社長である私が中国語を学ぼうとして何がおかしいんですか。あなたも頭がおかしくなったんじゃないですか。大丈夫ですか」
言葉を返せないでいる店町に対して宗像は続けた。
「これだけは信じてください。真実が何であるか。何が真実であるのか。どちらの言っていることが本当のことなのか。自分を見失っちゃ駄目ですよ、店町君」
宗像が「真実」という言葉を口にした瞬間、店町の中にあるとても大切なものが大きな音を立てて崩れ落ちた。宗像の過去、アランドリー株式会社という企業、その会社が世に送り出している製品、宗像を取り巻く社員たち。宗像が尊敬している対象までもが、店町の中で価値を失った。
返したい言葉が店町の頭の中に浮かんでは消え、宗像の目を見て店町は少し口ごもりながらこう言った。
「私。すべて知っているのですよ」
すると宗像は、また店町の発言をさえぎるようにこう切り返した。
「真実を見失っちゃ駄目ですよ。冷静に考えてみなさい。なんなら本人をここに呼んで聞いてもいいんだから」
「ええ、本人も、今日ここに来るって言ってたんです。私が頼りないから大丈夫か心配だから来るって言ってたんです。でも、私が彼女を止めたんです」
宗像はほんの少し表情をこわばらせて、焦り気味の口調でこう言った。
「そんなことしても無駄ですよ、真実はひとつなんだから。君がショックを受けるだけなんだから」
言葉数が少なくなった宗像は、不透明感に満ち溢れた目をしていた。暗闇に続くその目の奥深くには殺意すら潜んでいるようだった。
自分の身の潔白を証明するためならこの人間は平気で人を殺すかも知れない。宗像の目を見てそう感じた店町は、追及の手を止めた。
「店町君、さっき、この会社がおかしくなっていると言ったけれど、どうおかしく感じているのか聞かせてくれるかね」
宗像は、かすかに揺れはじめた店町の心を読み取って、巧妙に話をそらしはじめた。
店町はそれまで溜めていた思いのすべてを吐き出すように一気に話した。
「社長にはじめてお会いした面接の席でお話した通り、私は予防医学を実現する製品に対する思い入れがあります。ありました。何よりも、社長に対する尊敬の思いがとても大きいです。このまま社長を尊敬の対象として信じていきたいと願っています。でも、バランスが崩れています。おかしくなっています。儲かりはじめた途端に社長は周りが見えなくなっているじゃないですか。謙虚さをお忘れになっているじゃないですか。私は社長のことを尊敬しているのです。この先も尊敬する対象のままであっていただきたいのです。でも……、これは何ですか。私が思い描いた製品ですか。社長が目指されている製品ですか。私が尊敬していた社長の姿ですか。さっきの社長の言葉は何なのですか。社長がいつも理想だとおっしゃってるピラミッド型の組織も、実際にはただのワンマン企業じゃないですか。権限のすべてが社長にあって、売上が百億を超えても社長が私物化し、誰の牽制も受けようとされないじゃないですか。危険です。とても危険です。社長にいい顔をすれば役職が上がり、給料も上がる。正しい提案をしても社長の意に反するものだったら、社長はすべて跳ね除けてしまうじゃないですか。社長は天才なのですか。三十年前気付かれたんじゃなかったのですか。社長に対する尊敬の思いが強いから、私も必死なのです」
店町の顔は涙でくしゃくしゃになっていた。そして言葉を詰まらせた。その顔を見る宗像の表情は真剣で、口元を真一文字に結んで店町のほうを睨み見つめていた。
「私は、社長を尊敬しているのです。社長を取り巻く環境のすべて、社長が大切にされている思いのすべてを私も大切にしたいと思うのです。……でも、……これは、何なんですか」
言葉が続かなくなった店町の様子を見て、宗像はひとつ大きく息をした。宗像の顔に少し穏やかさが戻っていた。
「そうか。君の思いはとてもよくわかった。私が気付いていなかった。よく言ってくれた。……だがね、木村さんの件は、きみが聞いている話と事実は違うからね」
「もういいです!」
即答した店町に対して、宗像は「わかった」と一言だけ返した。
宗像は笑みを浮かべながら、デスクに身を乗り出してきた。
「よく言ってくれた。きみはとても素直な心を持った人間だ。お互い理解し合えたんだから、握手で終わりにしよう。君が勘違いしていたということもいずれわかるから。握手で終わりにしよう」
少し感傷的になっていた店町は、反射的に手を出しそうになって、ぎりぎりのところで思いとどまった。
「いえ、握手はしません。将来、私が立派になって、再び社長の前にご挨拶に来るまで、握手はしません」
「まぁ、そう言わずに。握手」
宗像はさらに身を乗り出して握手を求めた。
店町は同じ言葉を繰り返してその手に応じなかった。
「わかった。そしたら、将来、きみが立派になって挨拶に来てくれる日を楽しみにしている。また、相談事があったらいつでも言って来なさい。いつでも聞いてあげるから」
握手を求められても絶対に応じまいと決めていながらも、会社に対する思いや社長に対する尊敬の思いを涙ながらに語った店町は、もう少しで差し出された宗像の右手に手を伸ばしそうになった。
ほんの少しの沈黙のあと、宗像がまた身を乗り出して店町の胸ポケットからボールペンを取り上げた。素早い動きだった。
「店町君。これいいボールペンだねえ、ちょっと貸してもらうよ」
店町は明らかに動揺した。
宗像は取り上げたボールペンをまじまじと観察している。
「ほう、最近のボールペンはすごいもんだねぇ。録音機能まで付いているのか、便利なもんだねぇ」
宗像の表情は満足気である。
「電池が切れていますから、ボールペンとしてしか使えません」
店町の声は弱々しい。
「まあ、どちらにしても、これはしばらく借りておくよ。珍しい商品だからねぇ、私もひとつ欲しいくらいだよ」
店町は目を赤く腫らして席を立った。
その店町に対して、宗像は小さな声でひとり言のようにこう言った。
「木村さんも、店町君ももったいないことしたよねぇ……」
店町は横目で鋭く宗像を睨んで社長室を出た。そして振り向くことなく後ろ手に扉を強く閉めた。ドアが閉まる大きな音に驚いて、秘書室の皆が一斉に顔を上げた。店町は怒りに満ちた顔で早足に秘書室を出た。エレベーターの中で、店町は解き捨てるようにネクタイを外した。
店町はそのまま会社を後にして江坂のマンションに戻った。部屋に入って、そしてまたすぐに外へ出た。佳音が帰ってくるまでまだしばらく時間があった。
平日の午後とあって、江坂公園にはたくさんの子供たちが遊んでいた。ベビーカーを脇において立ち話をしている主婦たちの姿が目に付いた。会社の外ではこんな穏やかに時間が流れている。帽子をかぶった子供たちが、無邪気にはしゃぎながら店町の横を駆けていった。店町は、都会と郊外が絶妙にクロスオーバーするこの街が好きだった。
