『風に向かって飛び立つ白鳥のように』|第三部 追い風の中の亀裂

第21章 記録を遠くへ

2005年原稿・Web版 全24章

「今日どうだった?」

「……まあ、あんなもんかな。人間っていうのは、つくづく恐ろしい」

「もしかして、撲られでもした?」

「いや、撲られてはいないけど、心はずたずたに引き裂かれた。あれは人間のクズだ。自分の身を守るためには、あいつは人だって殺すかも知れない。あの目を見てそりゃ恐ろしかったよ。誰があの汚れた手と握手なんかするもんか。自分が立派になったら改めてご挨拶に参りますから、って断ってやったよ。ご挨拶なんかじゃなくて、いつかきっとあんたの頭の上に足を乗せさせていただきます、っていう意味なんだよ」

強気にそう言う店町の心は震え、何かに怯えていた。そのことを佳音に気付かれまいと店町は必死になっていた。あのとき、もし宗像の勢いに押されて握手に応じていたとしたら、この先一生後悔したかも知れないとの思いが店町の心を揺さぶっていた。

「そういえば、私の話を聞いたとき、顧問もあいつのことを人間のクズだと言ったよ」

店町は作り笑顔で元気を装っている。

「で、真治これからどうするの?」

「有給休暇の消化期間に入るまでは何とか会社行くよ。細かなところをつつかれるのはいやだからね。佳音がそうしたように、僕もあいつに負けないように頑張るよ。僕が会社に行かなくなったらあいつの思う壺だからね。僕の存在そのものでプレッシャーを掛けてやらないとだ」

「真治、無理しなくていいよ」

その夜眠れずに天井を眺める店町は、佳音の腕の重みを首もとに感じながら、佳音の優しい寝息を聞いた。

翌朝、店町は何食わぬ顔をして会社に行くつもりだった。しかし新大阪駅でふとその思いが変わり、店町は発券窓口に立ち寄って時刻表を開いた。店町は特急列車の切符を買うのには手馴れている。時刻表もだいたい頭に入っていた。

店町は特急サンダーバード7号と北陸3号の乗り継ぎ切符を新潟まで買った。車両中ほど禁煙窓側の席は、宗像のためにいつも準備していた席だった。

店町は会社には連絡を入れず、ひとり新潟に向けて出発した。まばらな乗客の中に登山服を着ている人の姿がある。富山駅で降りて飛騨高山あたりに向かうのだろう。

速すぎず遅すぎない特急列車で、規則的に思える不規則な揺れを感じながら、店町は大阪を離れ京都を通り過ぎ、琵琶湖を右手に眺めて北陸地方に抜けた。何度も眺めた景色が窓の外を過ぎていく。さっと過ぎていくように記憶していた風景も、今までと違うどこか別の目的地に向かって余韻を残しているように店町は感じた。

店町を乗せた特急列車は、田舎町の駅を少し速度を落として通過した。その向こうには見渡す限りの田畑が広がっていた。店町は、学生時代に部活の遠征で田舎町を移動していた頃のことを思い出した。その頃と同じように外を眺める余裕があった。何か吹っ切れたようでいて、この先待っている大きな試合に対する緊張感を心地よく感じていた当時の心境にどこか似ていた。

しかしその感覚も長くは続かなかった。現れてすぐに消えた。かき消したのは、まだ記憶にすら移行できない昨日の出来事だった。宗像は恐ろしい顔をしていた。恐ろしい言葉を発していた。

かつて優しく話し掛けた宗像の顔が浮かんだかと思うと、すぐにまた昨日の恐ろしい顔が現れそれを消し去った。

外を眺める店町も怖い顔をしていた。

店町は佳音のことを想った。しかしそれも弱すぎた。寂しさと悲しさを増幅させるに過ぎなかった。この二年間、店町の日々はすべてアランドリー中心、宗像中心に動いていたのだった。

宗像は店町の話を自信たっぷりに否定した。真実という言葉をも使って全否定した。もしかしたら宗像の言葉が本当で、実は佳音が言った話が嘘なのかも知れない。店町は自分の心の均衡を保つために、そう思う瞬間があった。苦しさのあまり、そうあってくれれば自分は救われるかも知れない、と考えてしまった。抵抗のしようのない自然な心の動きだった。

守るべき対象を疑っている自分に気が付いたとき、店町は感情コントロールの限界を知り、よりどころのない脱力感に襲われた。尊敬していた人物の発言を正当化するために、佳音が嘘をついているのだと結論付けようとする自分の心が許せなかった。

停車した小さな駅で、店町は駅名の書かれた看板を力なく眺めた。読めない駅名だった。店町は視線をわずかに下げ、ローマ字を読んだ。白い看板の端のほうは少し錆びていて、ペンキがはがれ落ち茶色いすじが見えていた。

列車はゆっくりと連結部分の衝撃を最後尾の車両まで分散しながら音を立て、再び動きはじめた。

終着駅もはっきりしている、通過する場所もはっきりしている。駅を通り過ぎる時刻もおよそはっきりしている。そこに計り知れない安心感が存在している。

出発地を離れるときの寂しさと、長い旅の終着駅が近づいてきたときに覚える寂しさ。もう少しこのままでいたいという思いが店町の中にあった。しかし列車はその気持ちに関係なく正確な時刻に乗換駅である金沢に到着した。

店町が姿を見せていないことをいいことに、今日も宗像は何もなかったように振舞っているのだろう。三ヶ月越しの店町の警告は、宗像にそれなりのダメージを与えたかも知れない。店町と同様、宗像も実は何かに怯えているかも知れない。

店町は金沢駅でホームの真ん中を歩いた。周りの安全を確かめることを欠かさなかった。

白鳥号が走っていたころには新潟に行くのに乗り換えの必要などなかった。直通の特急雷鳥号も毎日二本走っていた。古いものは淘汰され、そして新しく変化していく。誰かにとってプラスとなる変化は、その影で少なからず不便さを伴う。店町は金沢駅で弁当を買い、特急北陸号に乗り換えて日本海を左手に眺めながら最終目的地へと向かった。

おそらくもう来ることがないだろうと考えていた新潟駅のホームに一歩降り立った店町の心は、何か覚悟を決めたかのように落ち着いていた。

店町は新潟駅からバスで瓢湖に向かった。

店町の一番の目的は白鳥を見るためでなく、瓢湖の近くに本店を置く水原銀行を訪問することだった。既に夕方の五時を過ぎていて、窓口は閉まっていた。

店町は瓢湖で少し時間をつぶしたあと、観光協会で安く泊まれる宿を探した。店町は宿泊先をこの地で三代にわたって経営しているという古い民宿に決めた。

「ほぉ、大阪からですか。この季節には珍しい。白鳥もおりませんし。お仕事ついでか何かですかね?」

七十を越える宿の主人は、宗像が生まれ育った白銀旅館のことを良く知っていた。

「大阪といったら、あの旅館の息子さんに泰造くんというのがいましてね、洗濯機の会社を大阪でやっとるそうだけど、彼はこの町の誇りですよ。何でも、彼が頑張っている様子が新聞とかテレビで伝わってくると、今でも町中が活気付きますよ」

店町は口を挟まず黙ってその話を聞いていた。

「あれは、もう何十年も前だったかな、泰造君が自分で作った洗濯機を三輪トラックの荷台に積んでお袋さんのもとに届けに来たことがありましてね。お袋さん、涙を流して喜んで。いゃ、彼は親孝行者ですよ。出世して帰ってきた泰三君を見たときのお袋さんのうれしそうな顔は今でも忘れられないですよ」

そう語る主人は目を輝かせていた。

店町は佳音の言葉を思い出した。「今、行動を起こしたら……真治は、社員の皆やあいつを信じて感謝している皆を残念がらせることになるのよ」

心の救い所を求めて訪れた土地であったが、宿の主人の思い出話は、店町の心をより複雑なものにした。

佳音の言葉がこだました。自分が黙っていれば、宗像はこの先も世の中に善い行いを残していくだろう。自分がかつて感じた感動を、宗像はこの先も人々に与え続けていくだろう。自分が行動を起こせばそれはなくなってしまう。

人は、世の中に善い行いを残したならば、その対価としてどの程度までの悪いことを許されるのだろうか。何も善いことをしない替わりに、何も悪いことをしない生き方が本当に良い生き方なのだろうか。

店町はそうは思わない。

店町が許しさえすれば、宗像はこの先も全国の講演会で素晴らしい話をして人々に感動を与え続けるだろう。話を聞いた人々は、心温まり、慰められ、そして元気付けられることだろう。そのことが店町にはっきりと想像できた。

過去に数人が受けた被害と、未来の数千人に与えられるであろう感動と、どちらの重みが大きいのだろうか。未来の感動ははじめから存在しなかった、と人は言うかも知れない。けれども被害者である店町の想像の中には確実に存在するのである。店町が何も行動を起こさなければ、間違いなく存在するのである。偽りのもとに作り出された感動であったとしても、それは真実を知らされない限り人の心の中で感動であり続けることができる。

真実を明かすことにより、未来の感動がなくなるだけでなく、過去に与えられた感動もが連鎖的に輝きを失う。信じていた人々の心に不快感を与え、多くの人々を残念がらせる結果になってしまう。それを受け止めるだけの覚悟が今の店町にはなかった。宗像の代わりにそれ相当の感動を世の中に与えていく実力が今の店町にはまだ備わっていなかった。その現実が店町の行動にブレーキを掛け、店町にもどかしさを与え、行動を狂わせているのである。

善行をまったく行ってこなかった人間に対する制裁は容易である。制裁を与える側の人間が心を痛める必要がないからである。問題は、行ってきた善行が明らかに大きな人物に対して、一時の悪行に対して制裁を下さなければならない場合である。加えた制裁の副作用として確実に周囲に痛みを残す。

同じ悪行であるにもかかわらず、それまでの善行の大きさによって公平な制裁が下せないというのは不合理ではあるまいか。それまでの善行が大きい場合のほうが、罪の大きさ、社会への影響はむしろ大きいはずである。その大きな罪を咎めることによって失われる善いものが大きいというのは矛盾するではあるまいか。

店町は考えを巡らせるうち、人間の心が生み出す不合理さを重く味わった。偽善者の罪を追及しようとすると、その偽善者の善人の部分が顔を出し邪魔をする。

「真治、今どこにいるの。大丈夫?」

「今、新潟の瓢湖にいる」

佳音は少し間をおいて、「白鳥、まだたくさんいるの?」と聞いた。

「今の季節はいない。明日一日、こっちでゆっくりして夜行の急行電車で帰るよ。少し疲れた。ごめんよ」

「うん、わかった。ゆっくりしてきてね」

佳音はそれ以上何も聞かなかった。

翌朝、店町は午前十時ちょうどに水原銀行本店を訪れた。

白鳥をモチーフにした水原銀行のマークは、アランドリーのロゴマークによく似ていた。

「貸金庫をお借りしたいのですが」

きちっとした身なりの店町に対して、副支店長が対応に出てきた。店町はアランドリーの名刺は出さなかった。

「会社ではなく、個人の契約でお願いしたいです」

身分証の住所を見て副支店長は不思議そうな顔をした。勤め先の住所も聞かれたが店町は記入しなかった。店町は身分証としてパスポートを追加で提示した。

「契約の更新はどのような手続きをすればいいのでしょうか? 十年間お預けしたい物があるのですが」

「ご契約期間は基本的に一年ごとの更新になりますが、契約満了日までに双方から申し出がない限り自動的に更新されることになります。引き落とし口座に更新手続料以上の額をご入金いただいている限り、ご契約は有効になるシステムでございます」

「もし契約期間終了後に預け品を取りに来なかった場合にはどうなります? 口座にも預金残額が無かったとして」

副支店長はまた不思議そうな顔をした。

「ご連絡が取れない場合でも、当方の一存で金庫を開けることは規則上できませんから、お預かりしている限りは管理料を請求させていただくことになります。念のため一般論を申し上げておきますと、借主であるご本人様が亡くなられた場合には、法定相続人の方が一切の権利義務を承継することになります。もし、他の方に金庫を開けていただく必要があるのでしたら、あらかじめ代理人を届け出られることをお勧めしますが……」

店町は開設したばかりの口座に十年分の管理料を預けて、貸し金庫に朝礼記録と録音データの入った磁気ディスクを入れて鍵を掛けた。

「一流の条件とは、いつでも準備ができているか、ってことだよ、店町君」

白鳥号の中でかつて宗像から教えられたことを店町は忠実に実行していた。胸ポケットに入れたボールペン型のICレコーダーには確かに電池は入れてなかった。ただし、彼は上着の内ポケットの中にもうひとつICレコーダーを入れていたのである。

店町は銀行を後にして再び瓢湖に向かった。八月の瓢湖に白鳥の姿はなかった。カモの群れに餌を与えて店町は夕方まで時間を過ごした。店町は湖面に向かって繰り返し餌を投げ続けた。店町の周りにたくさんのカモが集まっていた。

急行きたぐに号は、午後十一時少し前に新潟駅を出発した。この寝台急行は、特急白鳥号と同じ年に登場した列車である。金曜の夜とあって自由席車両には人が少し多かった。寝台車には乗らず交通費を少しでも浮かそうとする人たちが自由席を利用していた。スーツ姿は店町ひとりだけである。

夜間の走行とあって、窓から外の景色はほとんど見えない。店町は日本海が広がっているはずの右手の窓をじっと見つめていた。そこに写る顔は力なく疲れていた。その顔に向かって店町は、

「俺、頑張ってるよな。間違ってないよな」とつぶやいた。

店町は眠れなかった。

入社してからの出来事が思い起された。仕事を覚えることに必死で、覚えた仕事を実践することに燃え、立派な社会人を目指して戦ってきた充実感に満ちた日々のことばかりが思い出された。宗像に対する感謝の気持ちは決してなくなっていなかった。なくすことができなかった。その思いが店町を苦しめていた。いっそうのこと心から恨んでしまいたい。そうすれば少しは楽になれるかも知れない。

感謝の気持ちを忘れてはいけない、素直な心を大切にしなければならない、そのことを深く教わったのは他ならぬ宗像からだった。店町にとって、宗像のすべてを拒絶することは人の持つ優しさのすべてを否定してしまうことのように思えたのだった。

佳音が言っていることが嘘だったとしたら自分の心は救われるかも知れない。その思いが、また頭をよぎった。

きたぐに号は、新大阪駅に午前六時四十三分に到着した。

自由席車両が停車するホームの真ん中あたりに佳音が立って待っていた。力なくホームに降り立つ店町の姿を見つけて、佳音は小走りに駆け寄ってきて店町の腕を取った。

「お帰りなさい」

店町は笑顔を作ろうとしたが、うまく笑えなかった。

「お腹すいたでしょ、ご飯食べに行こ」

佳音は明るい声で店町を元気付けようとしている。優しく見つめるその目には店町を安心させる温もりがある。店町は佳音に腕を引かれるようにしてホームの階段を上り、改札口を出た。

朝早くから営業している喫茶店に入って、店町はようやく口を開いた。

「佳音。心配ばかりかけてごめんな。俺って弱いよな、お金と権力に怯えてるよな」

そこまで言って店町は言葉につまり、そして感情を抑えきれないように表情をゆがめて、泣き出した。

「俺、頑張ってるよな、精一杯生きているよな。苦しいよ、どうしてなんだよ、どうしてこんななんだよ、俺、弱いよな、でも頑張っているよな」

佳音は言葉にこそ出さなかったが、涙を浮かべたその目は、店町の苦悩のすべてをしっかりと受け止めていた。

「精一杯やってるよ、真治。えらいよ、大丈夫だよ。いつか見返してやれるときがきっと来るよ、だから新潟まで行ったんでしょ。記録を遠くに置いてきたのは軽はずみな行動をとらないように、我慢するためになんでしょ。見返せる日が来るまで一緒に頑張ろ。その日が来たら、私のテープも渡すから」

レジの側に立つ店員は、二人のほうをちらちら気にして見ていた。

江坂のマンションに戻る途中、店町は突然真顔で、「ごめん、せっかく新潟まで行ったのに、お土産買ってくるの忘れた」と言った。

「いいの、いいの、いつか落ち着いた気持ちになれたとき、二人で一緒に旅行しよ。真治がいつも話してくれてた白鳥も見たいし」

店町の腕にくっつくようにして佳音は笑った。

部屋に入って、店町はベッドに腰を下ろした。

「そういえば、さっき、その日が来たらテープを渡すって言ってたよね。やっぱりあの日の社長の声、録音してたんだ」

佳音は店町のほうを振り返って軽く微笑んだ。

「でも、どうしてそのテープの存在を何ヶ月も黙ってたの」

「だってその存在を知ったら、真治、負ける戦いをすぐに挑んだでしょ。私ね、真治とずっと一緒にいたいから、真治がお金と権力に負けてボロボロになる姿を見たくなかったの。真治だったらね、いずれきっと、あの社長と比べものにならないぐらいに立派になって、お金持ちになって見返せると思うの。その日が来たら、きっとそのテープも必要なくなると思うの。それまでの保険かな」

店町は下唇を少し噛んで佳音に微笑み返した。

週明けの月曜日、店町は久しぶりに出社した。足取りは重かった。宗像の迎えには立たず、自席で黙々と書類の整理にあたった。

店町が出社しない間に、店町の退職日が九月二十八日と決まっていた。自己都合による退職という扱いだった。

「店町君。大変だったですね、実家がそんなに大変だったなんて知りませんでしたよ。相談してくれれば良かったのに」

店町の留守中に秘書業務を代行してた小竹課長代理が店町を気遣った。宗像からありもしない事実を吹き込まれているのは明らかだった。

店町は宗像からのその間接的な挑発には乗らず、適当に言葉を返した。事件の一部始終を知る者は店町に同情していたが、真実に向き合い宗像の罪を追及する手助けをしようとする者は誰もいなかった。

店町は佳音の身体を激しく求めるようになっていた。

「真治、痛いよ、そんなに強く抱いちゃ。えっ、真治。泣いてるの」

これは一種の現実逃避だった。切なさと悲しさともどかしさ、それらが混在する不安から少しでも逃れようとして店町は激しく佳音の身体を求めたのだった。

店町は佳音を抱きしめたまま、「ごめん、ごめん」とただただ繰り返した。店町の言葉は嗚咽のために続かなかった。

一番疑ってはいけない人間が嘘つきだったらいいのにという思いに囚われ、抵抗しあぐねている自分が許せなかった。その思いを無理やり押さえ込もうとして、またそのような自分に許しを求めて店町は、「ごめん、ごめん」と涙ながらに繰り返したのだった。

かつて生物学を専攻していた店町は、傷ついた心を癒す最高の方法は異性を求めることであるということを知っていた。そのメカニズムも大体理解していた。店町は自分の行動が本能的行動であることを恥じた。

現実に目を背け、佳音の身体に陶酔を求め、逃げ出そうとしている自分に気が付いたとき、店町は自分の心の弱さを知り、悲しく感じ、そして人間であることを残念に思った。頭では理解していた。精神的苦痛から逃れるために与えられたセックスは麻薬だった。

佳音は店町に一時の安堵をもたらした。しかしそれは根本的な解決とはなり得なかった。店町の中には悲しみが残った。

「真治、大丈夫だよ。私、真治を信じているから」

信じているからという言葉が店町を苦しめた。自分は佳音を疑ってしまっているということを口に出して正直に詫びたくて仕方がなかった。けれども、それはできなかった。

陶酔の中で寝入った翌朝は、店町は少し冷静でいることができた。佳音が側にいない夜は、店町は宗像の夢を見た。

「あの人は頭がおかしい……。君は何を言っているんだ……。人生の終わりですよ」

朝が来るのが怖かった。宗像が実在する現実世界に目覚めるのが怖かった。宗像の呪縛から抜け出せるのはいったいいつの日なのか、店町はまったくわからないでいた。ただ、佳音がそのきっかけを持っているような気だけはしていた。

二〇〇一年九月二十八日。店町の出社最終日、宗像は上海出張に出ていた。店町は下の階から順番に挨拶を済ませ、最後に最上階の扉を開いた。面接を受けに来たときと少し違うメンバーがそのフロアに居る。何名かが店町より先に会社を去っていた。

店町は各フロアで手渡された餞別の品を持っていた。

「本当にいいの? 送別会しなくて」

「ええ、送別会なんていらないです。別に何が変わるわけでもないですから。新しい会社で歓迎会してもらいますから」

「店町君のために盛大な送別会をしてあげなさい」総務部長にそう指示したのは宗像だった。それを知った店町は、その申し出をきっぱりと断った。

海外事業部のメンバーたちと店町は少し思い出話をした。店町を気遣って周りの皆は宗像の話は口にはしなかった。

やがて店町は皆にお礼を言って座席の下の鞄を手にとった。

デスクに視線を落とすと、本社勤務がはじまった当時の内線電話表の印刷がデスクマットに黒く写っていた。

店町は自分が使っていた電話機の受話器のコードが少しよじれているのに気が付いた。刈谷室長が会社を去った日も確かそうだった。店町は受話器を一度手に取ったが、そのまま元の位置に置いた。その電話線のよじれは、これから先も続くであろう店町の心の葛藤と実社会に対するささやかな抵抗を表していた。今はまだなおすべきではないような気がして店町は受話器をそのまま置いたのだった。

エレベーターの一階のボタンを押す指が少しためらっていた。毎朝、最上階のボタンを素早く押していた頃のことが、ここにきてとても懐かしく思えた。

もう二度と乗ることのないエレベーターの扉が開いて、店町はひとり静かに会社を後にした。新大阪駅の時計は、十七時二十分を指していた。

— 第21章 終 —