『風に向かって飛び立つ白鳥のように』|第三部 追い風の中の亀裂

第19章 追い風の裏側

2005年原稿・Web版 全24章

宗像の突発的な北京出張は続いていた。宗像は空港内のショップでいつも決まって女性用のアクセサリーを購入する。店町は宗像の手荷物を抱えてジュエリーショップの入り口付近でじっと立って待っていた。

店町は気にしないようにしていたが、宗像が振り向かずに空港ゲートを入っていくたびに、シャングリ・ラ・ホテルで目にした光景を思い出した。相手の女性が何者なのかが気になっていた。もしかしたら本当に中国の要人の立場にある人物なのだろうか。まだその思いが消えていなかった。

意外にも、上海工場の董副総経理がその事実を知っていた。数ヶ月おきに本社に顔を出す董副総経理に北京出張のことをそれとなく店町が聞いてみたのである。

董副総経理の話によると、上海工場設立の際にできた人脈で、アランドリーは香港の化粧品会社のイベントに協賛しているというのである。宗像は毎年香港で開催されるアジアビューティーコンテストの審査員となっていた。店町はその事実を一切知らされていない。

「確か今年のコンテストで審査員特別賞に選ばれた女性だったかな。二十歳ぐらいの北京出身の女性。出身は北京じゃなかったかも知れないけれど、中央戯劇学院に通っているはず。中央戯劇学院といったら、将来女優の道を約束されたような大学だから、いくらかわからないけど、きっと日本円で月百万は下らないんじゃないだろうかね。今、日本でもグリーンディスティニーって映画がヒットしているだろ。あれに出てるチャン・ツィイーが出た大学だよ」

「月百万って何がですか?」

店町はその質問をして、愚問であることにすぐ気が付いて気まずく苦笑いを浮かべた。

「俺だってそれだけのお金欲しいよな。月に数日会うだけでだよ」

中央戯劇学院というと、佳音がかつて留学していたという大学、店町が宗像を追いかけて北京出張した際に立ち寄った大学である。シャングリ・ラで店町が目撃した女性は、その人物だったのである。彼女は確かに周りとは明らかに違う雰囲気を持っていた。

店町はその事実を知ってからも秘書としての業務に手は抜かなかった。抜けなかったのである。宗像に対する忠誠心は下がっていたが、宗像の側にいると自然に身体が動いてしまうのだった。

店町が宗像に同行して久しぶりに上海工場に出張してみると、工場内の様子がいつもと違った。

始業のベルが鳴るのを事務室で待っていると、作業現場から中国の国歌が聞こえた。大勢の作業員が一斉に歌いはじめたのである。その声は、工場内に大きく響いた。

店町は宗像とともに早足で作業現場へと向った。後ろから董副総経理も続いた。

宗像は唖然とした。各部門の責任者が最前列に立ち、その後ろに作業員達が整列している。まるで軍事訓練を受けた兵士のように、一点を鋭く見つめ、その列は微動だにしない。国家を斉唱する口だけが不気味に動いている。

クーデターのはじまりだった。

店町は、宗像の怯えた顔をこのときはじめて目にした。中国人が団結した際に見せるパワーの凄さに圧倒され、その目はあきらかに動揺していた。

董副総経理は混乱を沈めようと駆けまわった。言葉の通じない宗像も、通訳を介して部門責任者の説得にあたった。

要求事項が何なのかを問うと、皆から返ってきたのは給料を上げろ、日本人幹部を工場から排除し、董副総経理に全権限を与えろというものであった。

宗像の経営方針に対する不満が爆発したようである。混乱は三日間続いた。その間、生産ラインは完全にストップし、運び込まれる部材は倉庫に乱雑に山積みになった。全員出勤してくるが、誰も作業に取り掛かろうとはしない。事務所の電話が鳴ろうとも、誰も電話に出ない。中国語の話せる日本人幹部と董副総経理自らがその電話対応に追われた。

地元有力者の手を借りる以外に混乱を沈める手立ては無かった。

宗像は出張予定を延長してあらゆる手立てをつくして上海工場の正常化に努めた。クーデーターの首謀者を探し出そうとしたが、中国人たちの結束は固く、簡単に口を割るものはいなかった。

宗像のスケジュールを調整する必要があるため店町は先に日本に帰国することになった。上海の空の窓口は、工場に近い虹橋空港から浦東空港に完全に切り替わっていた。

店町の帰国後、驚くべき事実が明らかになった。

今回のクーデターを計画し、中心に立って指揮していたのは董副総経理本人だったというのである。

「副総経理なんて名ばかりじゃないですか。人事の決定権もまったくなくて、給与も決められない、七〇〇元のものを購入するのに、どうしてわざわざ稟議書を日本にFAXして決済を仰がないといけないのですか。工場内で私が社員からどんな目で見られているか、社長はご存知なのですか? 上海はすべてお前に任せる、と社長はおっしゃってたじゃないですか。私を少しは信用してくださいよ」

董副総経理がかつて宗像に訴えかけていたときのことを店町は思い出した。プライドを大切にする中国人として、名ばかりの立場に我慢できなくなっていたのである。

董副総経理は即刻解雇となり、クーデターに協力した一部の幹部も上海工場を去った。立場を失った董に付いていくものは少なかった。工場には混乱の火種が確実に残っていた。

二〇〇一年五月二十一日。店町は午後六時過ぎに梅田第三ビルの側まで宗像を送った。

「店町君。ここからは私が自分で車を運転するから、電車で帰ってくれたらいいから」

今までにない状況であったが、店町はいつものように深々と頭を下げて宗像を見送った。

店町は歩いていたため気付かなかったが、会社へ戻る途中、佳音から携帯にメールが入っていた。

『今日、梅田に寄って帰るから、少し遅くなる』

メールが届いた時刻を見ると、午後六時十七分となっていた。社長を見送った直後だな、と店町は思った。

会社に戻った店町は残りの仕事を手早く済ませ、普段より早く会社をあとにした。

店町がシャワーを浴びて着替えているときに部屋の鍵が開く音がした。

「おぅ、お帰り」

佳音は何も答えずに不愉快そうな顔で部屋の中に入ってきた。

「何かあった?」

「……。まぁ、ちょっと。腹立つことがあったの」

「どうした?」

佳音は話したがらない様子である。顔は怒っている。

「今日の夕方、私、真治にメールしてたでしょ。あれね、社長に食事に誘われてたの。給料の相談に乗ってくれるって話、前にしてたでしょ。その話があるって言うから、私仕方がないから行ったの。そしたらね……」

「いいから、話して」

「あのオヤジ、人間のクズよ。私に何を言ったと思う。もう私腹が立って腹が立って。今の給料が安いのは先輩の北野さんが付けた評価が正しくないからだ、次の給与改定までは無理だけど、個人的には支援してやることはできるって言い出したのよ。今日親密な関係になってくれたら、二十七日までに二百万必ず用意するって言ったのよ。私のこと馬鹿にしてるわ」

「えっ、……」

佳音が一気に話した内容を聞いて店町はしばらく言葉を失った。話の内容は理解できたが、その理解は店町の現実とは遠く離れた場所にあるものだった。

「私、ものすごく腹立ったから、自分の顔をよく見てみろって言ってやったわ。それでも社長なのかって」

佳音を見つめる店町の表情はどんどん険しくなった。

「ゆるせない」

店町の口から最初に出た言葉だった。次の言葉が出てこない。

梅田に送ってくれと店町に指示した宗像の目的は、それだったのである。店町の頭の中でいくつかの話が結びつきはじめた。第三ビルの前で自分が帰されたのは、早い時刻に会社を出るという不自然な状況を隠すためだった。佳音は数ヶ月前から宗像の様子が怪しいと周りに相談していた。以前から宗像は佳音に対して給料の相談に乗ると話していた。

宗像は計画的だったのである。

数時間前の出来事に、宗像のセクハラ行為に加担させられていたのだという思いが店町の怒りを増幅させた。

店町は部屋の中を落ち着きなく歩きまわった。怒りからこみ上げる「ゆるせない」という言葉を何度も繰り返した。

「そのあと社長はどこへ行った?」

「知らないわ。私があまりに怒り出したもんだから、喫茶店に移動して、それでもおさまらないから、このクソオヤジって言い残して私帰ってきた」

「ちょっと、今から探してくる。何とかしないとだ」

携帯を手に外へ出ようとする店町の腕を取って佳音が止めた。

「真治、やめて。あんなオヤジほっといて。私、言いたいこと全部言ってやったから、真治はそんなに怒らなくていいよ。自分達が損するだけだよ」

「人間の優しさとか、心とか、人生の目的とか立派な話をしている人間がだよ、これ裏切り行為だよ。世の中を馬鹿にしてる。米光会長の側近として優誠経営塾の理事でいることがおかしい。最低の人間じゃないか。社長のことを尊敬し続けてきた自分が馬鹿みたいじゃないか。どうなってんだよ。やっぱ、俺、行ってくる」

「真治、やめて。たとえ命がけで戦いを挑んでも、今は無理だよ」

店町は、制止する佳音の腕を振りほどこうとした。

「もしね、どうしてもって真治が言うなら私は応援するよ。でもね、こっちにはお金もないし権力もないわけでしょ。あいつはお金もあるし権力だってある。政治家だって使うことができるよ。今の私たちには勝てないよ」

佳音は怒りを本人にぶつけてきた分だけ既に少し冷静になっている。

「それに……、もしこう言われたらどうするの? 真治。『私をこの場から引きずり落とすのはいい、だがねきみ。この会社で働く何百人の社員とその家族を路頭に迷わすことになるんだよ』って。会社を支えられるぐらいの力が今のあなたにあればいいと思うよ。でも、そうじゃないでしょ。もしそうなったら、あなた真面目だから耐えられないでしょ。あなたと私があいつを恨むのと同じぐらい、社員の家族から私たち二人が恨まれることになるのよ。それに耐えられるの? 私、言いたいこと言ってやったんだから、もういいのよ本当に」

店町は佳音のこの言葉を聞いて、言葉なくベッドの上に座り込んだ。

「いつか見返してやれるときが来るって。あなただったらできるって。だから今は我慢して」

佳音が言っていることは確かに間違っていない。今の怒りをそのままに宗像にぶつかったとしても、与えるダメージよりも店町が受けるダメージのほうがはるかに大きいということは明らかである。

「俺、明日からどんな顔して会社行けばいいんだろ」

沈んだ顔の店町を見て佳音は小さくつぶやくように言った。

「私、なんだか真治に悪いことしたみたいね。悲しいな」

佳音も沈んだ顔をした。

「私がいなければ、尊敬する社長のままでいられたんだよね……」

店町は、硬直した怖い顔で一点を見つめている。それは怒りを抑えるのに必死の表情だった。

翌朝、佳音は店町と一緒にマンションを出た。真治が感情的に行動してしまわないようにと佳音が付き添ったのである。

店町はそれまでと同じようにビルの前で宗像の到着を待った。駐車場を掃除する気など起こらなかった。

店町は何か恐ろしいものを迎え入れるために自分がそこに立っているような気がして、いつもと少し立つ位置を変えた。

センチュリーは普段より五分ほど遅れて角を曲がってきた。運転席に宗像の姿が黒く見える。

頭を下げる角度がいつもより浅くなった。今までのような大きな声が出ない。動きも鈍い。

店町が運転席のドアを開けると宗像は険しい表情で車を降りた。

最上階へ向うエレベーターの中、会話はなかった。微妙な緊張感の中に空気はよどんでいる。店町は宗像の顔を見ることができなかった。この男は気付いていないが、こっちは知っている。法的には有利な立場にあるはずだったが、その思いも店町には何の安心感ももたらさなかった。

宗像の上着には、猫の毛らしい白い毛がたくさん付いていた。宗像の自宅には猫はいないはずである。宗像から女性の香水の香りがしていた。いやな匂いだった。店町は思わず息を止めた。

秘書室の扉を開いて中に入ると社長朝礼を受けるために新入社員たちが集まっていた。宗像が通り過ぎるのが見える位置に佳音が座っている。

「おはようございます」

佳音はわざと明るい声を出した。自分の存在を告げる声だった。目は笑っていない。宗像はその声を聞いて表情をこわばらせた。首がピクリと一瞬不自然に動いた。宗像は、まさか今日、佳音が会社に来るとは想像していなかったようである。しかも佳音は普段よりも早く出社している。佳音の先制攻撃だった。

宗像は「おはよう」とだけ言って社長室内へ入った。後ろに続く店町は一瞬佳音のほうを見て、社長室のドアを閉めた。佳音は心配そうな目で店町が社長室に入っていくのを見ていた。

スケジュール確認の際、宗像は上の空で聞いていた。何か真剣に考えているようだった。店町のスケジュール確認にもスムーズさがない。

そして一日がはじまった。

店町は通常業務そっちのけで過去の朝礼記録を繰りはじめた。宗像の過去の発言で気になるフレーズに赤線を引き続けた。宗像の教えは朝礼記録に凝縮されている。昨日の宗像の行動は、自らの教え、ルールに反している。その証拠を店町は必死で探し出そうとしていた。

午前中、宗像は部屋から出てこなかった。午後になって総務部長が社長に呼ばれたようで、社長室内に入っていった。

しばらくして宗像と総務部長の二人が出てきて、皆がいる前でこう言った。

「木村さんは、給料の面でこちらが期待に答えられないから、今月で辞めますからね。皆盛大に送別会をしてくださいね。あれ? 皆は木村さんが辞めることをまだ聞いてませんでしたか。私のほうから先に言ってしまいましたね。ごめんなさいね木村さん」

宗像のこの発言に対して、佳音も店町も無反応を装った。軽はずみな行動を起こすべきではない、と怒りをぐっと押さえ込んだのである。

一部の人間は佳音の口からセクハラ事件のことを聞いて知っていた。しかし誰も行動を起こすものはいなかった。行動が起こせなかったのである。女性たちから後押しされるようにして唯一総務部長だけが真実を確かめようとしたが、真実は闇にほおむられ、それまでと何も変わらなかった。

店町の宗像に対する忠誠心は怒りに変わっていた。退職手続きが完了した佳音の姿はもうアランドリーにはない。

翌週の全体朝礼で店町は前から二列目中央の席に座った。膝の上にはA4のクリアケースに入れた朝礼記録がある。もしこの朝礼で、宗像がおかしな発言でもしたならば、店町はセクハラ事件の真実とその朝礼記録を手に宗像の前に飛び出す覚悟でいた。

その日の朝礼はいつもより短く終わった。それまで心に浸透するように聞こえていた宗像の話が、店町のもとへは届かなくなっていた。

その夜、店町がマンションに帰ると佳音が笑顔で待っていた。

「転職先、決まったよ。明日から」

「えっ、早い。どこ?」

「栄陽電機の大阪支店」

「本当に? すごい」

「ちょうど貿易事務担当者を探していたんだって。直接電話して面接しに行ったら、即オッケー」

栄陽電機というと、特許抵触問題でアランドリーとお互いに睨み合いが続いている相手である。

佳音のこの報告を聞いて、店町は少し笑顔を作ることができた。ときに感情的になることが多い女性も、いざというときにはとても現実的である。佳音の切り替えの早さを見て、店町は男性には真似ができないなと思った。

店町も転職活動を開始した。転職先が見つかるまでは動くべきではない。怒りをそのままに行動を起こしたならば、必ず自分が損をする。その思いが店町をアランドリーに留まらせた。もはや特別扱いされる立場を失いたくないという思いが店町の行動にブレーキを掛けたのではなかった。

異分野から専門外の仕事に就いた店町のキャリアはまだ浅い。社会人になってからまだ二年半である。前職を辞めてからの転職活動ではどこも相手にしてくれないだろう。転職先の面接で真実を語るべきだとも思わない。アランドリーとつながりのある会社へのコネクションもまったく期待できない。世の中は不景気が続いていた。人と違った経歴を持ちながらも第二新卒を抜け切らない店町の転職活動は困難を極めた。

佳音は店町の心情を考えて、宗像とのやり取りのすべては話さなかった。事件当夜、梅田の小料理屋の一室で宗像と佳音との間で交わされたのは次のようなものだった。

宗像は市営地下駐車場に車を止めたあと佳音との待ち合わせ場所である中央郵便局前に向かった。

中央郵便局前には既に佳音が待っていた。ポストの横に佳音の姿を見つけた宗像は、「お腹もすいただろうから、料理屋に移動しよう」と言って佳音の前を歩いた。「木村さんは、入社してから、もうどれくらいになったかな」

「一年とちょっとです」

二人がビルの中の料理屋に入ると座敷の個室が用意されていた。

宗像の様子がどこかそわそわしていた。

「給料の話なんだけど」

宗像は、ごくごく小さな声で話した。

「はぃっ? 周りが騒がしくてちょっとよく聞こえません」

「お給料の話なんだけど……。前から相談に乗ると言ってた」

「はい」

「木村さんの給料が安いのはねぇ、北野さんがあなたに付けた評価があまり高くなかったからなのですよ。北野さんが悪いんですよ。次の給与改定までは難しいけれど、そのうち北野さんは異動になるからそのときは私が木村さんの評価を公平に行うことができるようになります」

お造りに手を伸ばしながら、佳音は宗像の話を聞いている。

「それでだけど。給与という面では力になってあげることはできないけれど、月に一度会ってくれるというなら十万円でも二十万円でも個人的に支援してあげることはできますよ」

昇給の相談だったはずの話が、個人的支援という話にすり替わっていた。

「そういうお話なら結構です」

「まぁ、そう言わずに話だけでも」

「給料上げてもらえるのですか、もらえないのですか」

「だから、給料としては今は無理だけど、個人的な支援なら……」

一見おとなしそうに見える佳音も、こう言われて黙っていなかった。

「だから、そんな話ならお断りします。わざわざ梅田まで出てきてそんな話なのですか。そこまで私、お金に困ってませんから」

「うちのような契約社員の安い給料だけでブランド品なんか買えないだろうから、きっと金持ちのスポンサーが付いているものとばかり思っていたのだけど、違うの?」

人を外見で判断してはいけないと常日頃から説いていた宗像の発言とは思えない言葉だった。

「トップの人からこのように誘われることは一生に一度か二度しかないことだから、そのチャンスを逃してはいけませんよ。毛沢東でも何人もの女性にそうしてチャンスを与えてきたじゃないですか。二十歳のトップモデルも、こちらが要求しなくても私に尽くしてくれた。それなのにどうして木村さんは駄目なの。……彼氏ができるまで、結婚するまでの間、月に一度会ってくれるなら、十万円でも二十万円でも出しますよ。……今日、親密な関係になってくれれば二十七日までに百五十万でも二百万でも必ず用意します」

佳音はしばらく黙って聞いていたが、目は不機嫌に宗像の顔を睨み付けていた。

「失礼ですね。自分の顔をよく見てください。私のおじいさんでもありえる年齢ですよ。それでも何百人の社員を預かる社長なのですか」

彼女の語調は強い。夜叉の面のように彼女の顔は怒りに変化している。

「二千万円、一億円積まれても、絶対に嫌です。田丸さんとの関係はどうなんですか。みんな社内の人たちは知ってますよ」

「いやいや、それは違う。田丸君はタイプじゃないし、その人の結婚式にも出たし、ご両親にも会ったことがある。まさかそんなことができるわけないでしょう……」

宗像は歯切れ悪く泳いだ目でそう答えた。

「私、ものすごく腹が立ってきました。私のこと馬鹿にしてますね。愛人なら別のところで探してください!」

「ちょっと木村さん、落ち着こう」

「落ち着いてなんかいられますか、そんな失礼なこと言われて」

宗像は少し焦りはじめている。

「まぁ、ここの店では何だから、喫茶店に移動して落ち着こう」

「喫茶店に行ってどうなるのですか。どこで話しても同じです」

料理を運びに来ていた中居の姿もぱたりと止まった。

しばらくして二人は小料理屋を出て喫茶店に移動した。

「木村さん。そんな考え方では駄目ですよ。上の人についてチャンスをものにしよう、上にいる人たち誰でもがしていることですよ」

「それでもあなた社長なのですか!」

佳音は宗像の腕を激しくたたいた。喫茶店でもしばらくこのやり取りが続いた。宗像は半分やけくそに「やっぱり、あなたの考え方は中国人だ」と言葉を吐いた。

それに対して佳音は、「はぁ? 最終的にはそんな結論付けしかできないんですか! 誰だって目は二つ付いているし、楽しいときには喜ぶし、悲しいときには涙を流す。どこの国の人、どこの生まれなど関係ないじゃないですか。人間には心があります。それでもあなたは社長なのですか!」とばっさり切り替えした。

「私だって、法律については勉強しているのですよ。京大も出ていますし」

法律という言葉に宗像は敏感に反応した。権力とお金の力を利用して数々の厄介事を片付け、すべてうやむやにしてきた人間の特徴がここに現れた。公平な判断が下される法の裁きが怖いのである。

「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたは怖い人だ……。怖い、こわい……」宗像はつぶやくように言った。

「今付き合っている人は、アランドリー本社に勤めている人です」

「独身の人?」

とっさに聞き返した宗像に対して、佳音は「失礼な、独身の若い人ですよ!」と言った。

「あぁ、そうか……。それは、よかった。あなたの幸せを祈ってます……」

宗像の言葉は歯切れが悪い。宗像は佳音の機嫌を取ろうとしはじめている。

「あなたはすごい人だ、かなりの人だ」

「私、もう帰ります」

「あ、いゃ、じゃこれタクシー代」

「そんなものいりません」

「そう言わないで、もし帰り道何かあったら困るから、タクシー代……」

宗像は佳音に無理にお札を一枚手渡した。

宗像のそれ以降の行動は、宗像本人とその夜を共にしたであろうどこかの女性以外誰も知らない。

佳音が宗像に対して言った「独身の若い人」。店町のことである。

あろうことか宗像は、一番身近に置く人間を敵にまわしてしまったのである。店町が製薬会社の娘と付き合っているということを知っていた宗像は、その事件後も店町に疑いの目を向けることはなかった。

店町はすぐにはアランドリーを辞めなかった。転職先が見つかるまで辞めないと心に決めていた。理由がなんであろうと、前職を辞めてからの転職活動は楽ではないということを店町は知っていたからである。むしろそれ以上に、すぐに会社を去るということは、店町にとって敗北以外の何ものでもなかったからである。

店町の転職先が決まったのは、八月の盆休みが明けたころだった。セクハラ事件から既に三ヶ月が経過していた。それと気付かれずに息を潜めて宗像のもとで過ごすということは、忍耐力と演技力を同時に試されているかのようであった。転職先の最終面接を控えた前日には情報番組の取材があり、その取材対応にあたっていた田丸に呼ばれて店町はカメラに向かってアランドリーの夢ある将来を社長秘書の立場としてもっともらしく活き活きと語った。取材を終えた店町はしばらく放心状態になっていた。

店町は総務部長に相談して、宗像に退職の意思を伝える日を八月二十二日に決めた。有給休暇は二週間以上残っていた。

店町から事件の真相を聞かされた総務部長は、声をあげて泣いた。

「やっぱり、あれは事実だったんだ……。店町君、今までよく我慢できたな。俺には真似できないわ……」

それから数日間彼は会社から姿を消した。

— 第19章 終 —