――まだ人生の制約条件を知らなかった頃

1990年4月9日。

15歳だった私は、京都市立堀川高等学校の入学式で、新入生代表として壇上に立ちました。

手元には、そのとき読んだ宣誓文の控えが残っています。

宣誓

私たち新入生一同は堀川高等学校の生徒としての自覚を持ち、

心身を鍛え勉強に励み、人格の形成と目標の達成に努め、これからの三年間を意義あるものにすることを誓います。

平成二年四月九日

新入生代表 武市真吾

なかなか立派なことを言っています。

ところが、このあと私は、勉強をやめました。

十五歳の宣誓と、その後の高校生活。

今読み返すと、この落差が少し可笑しくもあります。


勉強すれば、結果が出ると思っていた

中学生の頃の私は、比較的よく勉強のできる子どもでした。

中学三年時の通知表も、九教科の大半が「5」。高校入試へ向けて勉強し、堀川高校へ進みました。

努力をすれば、だいたい結果が返ってくる。

勉強すれば成績が上がる。

練習すれば上手くなる。

何かをやりたければ、自分が動けばいい。

十五歳の私にとって、世界はかなり素直な構造に見えていたのだと思います。

身体は動く。

未来は長い。

頑張れば、たいていのことは何とかなる。

それを疑う理由がありませんでした。


そして私は、勉強をやめた

高校へ入ると、私は勉強から急速に離れていきました。

今思えば、中学まで張り詰めていたものが切れた、軽い燃え尽きのような状態だったのかもしれません。

代わりに面白くなったものがありました。

競馬。

パチンコ。

そして、昔から好きだった釣り。

高校生だった私は、京都・南座の裏にあった場外馬券売場へ行き、数千円単位で馬券を買っていました。

パチンコでは、阪急大宮駅近くにあった店へ通い、羽根物の台を打つ。

今なら、高校生が何をしているんだと思います(笑)。

ただ、その頃の私は大真面目でした。

競馬では過去のデータを調べ、展開を考える。

パチンコでは台の状態を観察する。

遊びながらも、なぜか私はずっと「何が結果を変えているのか」を探していました。

今の言葉で言えば、変数を探していたのだと思います。


釣りだけは、本当に勝ってしまった

中学生の頃から、私はバスフィッシングが大好きでした。

そして高校一年生だった1990年9月。

琵琶湖で開かれたジュニアの西日本バスフィッシング大会に出場し、優勝しました。

そのときの楯も、今も手元に残っています。

バスプロになりたくて、船舶免許を取得したのもこの頃です。車の免許より先にボートです。

勉強はしなくなっていたのに、好きなことには恐ろしいほど集中できる。

魚がどこにいるのか。

水温はどうか。

風はどちらから吹いているか。

水深、地形、時間、ルアー、魚の活性。

見えない水の中を、見えている情報から想像する。魚の気持ちが分かる。

考えてみれば、これも今の私が好む世界そのものです。

変数が多い。

正解は見えない。

それでも、自分なりの仮説を作り、試してみる。

ただ当時は、そんなふうに自分を分析したことなどありません。

ただ、釣りが好きな高校生でした。

そして、部活動での競技スキーも。


幸せらしさを、少し前借りしていた

勉強をしなくても、毎日は楽しい。

釣りへ行く。

競馬をする。

パチンコをする。

その瞬間だけを見れば、自由で楽しい高校生活です。

でも、時間は止まってくれません。

大学受験が近づいてきました。

その頃になって、ようやく自分が使ってしまった時間の大きさに気づきました。

今、私が時々使う言葉があります。

「幸せらしさの前借り」

将来支払わなければならないものを残したまま、目の前の快楽や安心を先に受け取ってしまうこと。

考えてみれば私は、高校生の頃にもう実験していました。

しかも、失敗例として(笑)。

そして、その返済時期がやって来ました。


今度は、猛烈に勉強した

受験が現実になると、私は一転して勉強しました。

かなり極端だったと思います。

その頃、一時的にチックのような症状が出るほど、勉強へ集中していました。

安全策として複数の大学を受験することもしませんでした。

受験したのは、新潟大学。

そして、合格しました。

京都から新潟へ。

十八歳の私は、一人暮らしを始めます。

そこでも私の身体は、まだ何の制約も感じさせませんでした。


身体を持て余していた

高校ではスキー部。

大学でも基礎スキー部へ入りました。

冬はスキー。

雪のない季節には自転車。

1994年の夏には、マウンテンバイクで新潟から京都まで帰省しました。

4時間耐久のマウンテンバイクレースへ一人で出ることもありました。

基礎スキー部のトレーニングだけでは物足りず、週末には角田山を自転車で登る。

身体を休ませるという発想より、どう使うかを考えていました。

事故の数か月前には、トライアスロンへ転向することまで考えていました。

当時の私は、身体というものを、ほとんど無尽蔵に使える資源のように感じていたのかもしれません。

疲れても寝れば戻る。

鍛えれば強くなる。

無理をしても、若さが吸収してくれる。

それが当たり前だと思っていました。


制約条件は、自分で選ぶものだと思っていた

今振り返ると、20歳までの私は、制約条件について深く考える必要がありませんでした。

もちろん、受験には時間があります。

お金にも限りがあります。

勝負には勝ち負けがあります。

でも、それらの多くは、自分が努力したり、工夫したり、選び直したりすることで動かせる変数でした。

勉強しなかったなら、あとで勉強すればいい。

釣れなければ、場所やルアーを変えればいい。

負ければ、もう一度分析すればいい。

私は、世界とはそういうものだと思っていたのでしょう。

変えられない条件が、自分の人生に突然入ってくる。

その経験が、まだありませんでした。


1995年3月15日

大学二年の冬。

私は新潟大学基礎スキー部の合宿で、黒姫高原スキー場にいました。

前日までの私にとって、身体はまだ自由に動くものでした。

鍛えれば強くなる。

走れば速くなる。

練習すれば上手くなる。

未来には、トライアスロンだってあるかもしれない。

そんな身体でした。

1995年3月15日。

林間コースで、木に激突しました。

その日を境に、私の人生には、それまで知らなかった種類の変数と制約条件が加わることになります。

努力だけでは動かないもの。

意思だけでは消せないもの。

今日できたことが、明日もできるとは限らない身体。

十五歳の入学式で、

心身を鍛え勉強に励み、人格の形成と目標の達成に努め

と宣誓した私が、その五年後から、本当の意味で「心身」と向き合うことになるとは思ってもいませんでした。


あの宣誓を、52歳の私が読む

十五歳の文章を、今の私が添削するつもりはありません。

未来を知らない少年が、その時に本気で書いた言葉です。

その後、宣誓どおりに三年間を過ごしたわけでもありません。

勉強をやめました。

競馬もしました。

パチンコもしました。

釣りには夢中になりました。

そして最後には、また猛烈に勉強しました。

ずいぶん遠回りです。

でも、今となっては、そのどれもが自分の一部です。

そして、この宣誓文の中で今の私が一番気になるのは、

「目標の達成」

よりも、

「心身を鍛え」

という言葉です。

十五歳の私は、身体を鍛えるとは、身体を強くすることだと思っていたでしょう。

52歳の私は、少し違います。

身体を知ること。

限界を知ること。

変えられるものと、変えられないものを見分けること。

そして、与えられた条件の中で成立する方法を探し続けること。

それもまた、長い時間をかけて身につけた「心身を鍛える」ということなのかもしれません。

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