――私はまだ、治ってから戻るつもりだった

2019年5月6日。

私は、一緒に働いてきたGNESの皆さんへ、一通の手紙を書きました。

その九日後、5月15日付で会社を退職することになっていたからです。

前年の2018年4月。

長いブランクを経て、私はもう一度会社員として働き始めました。

身体の後遺症については、ほとんど誰にも話していませんでした。

健常者として働く。

片道一時間半ほど車を運転し、全国への出張もこなす。

会社で身体を使い切れば家まで帰れないので、帰宅できるだけの体力を残しながら、その日の仕事を成立させる。

そんな生活を続けていました。

そして、とうとう身体が動かなくなりました。

検査入院。

事故から24年を経て、「脳脊髄液漏出症(脳脊髄液減少症)」の確定診断。

傷病休暇。

私は、会社を離れることになりました。

※以下の引用は、2019年5月6日に私自身がGNESの皆さんへ書いた手紙から、当時の表記を基本的にそのまま掲載しています。


「散るように戦力外となってしまい」

手紙は、皆さんへのお詫びから始まっていました。

この度の休職では皆様に大変ご迷惑とご心配をお掛けすることとなってしまい、誠に申し訳ございませんでした。また、5月15日付にてGNESを退職致しますこと、このような形でのご挨拶となり重ねてお詫び申し上げます。

一年にも満たない在籍でした。

それでも私にとっては、長く離れていた会社という場所へ戻り、もう一度仕事ができることを確かめた時間でもありました。

私は、本来なら検査入院を終え、早く仕事へ戻るつもりでした。

ところが、手紙にはこう残っています。

検査入院後に早期に復帰してこれまで以上に活躍させて頂く気持ちでおりましたが、散るように戦力外となってしまい皆様にどれほどのご迷惑とご負担をお掛けすることとになっているかを想像すると心が痛みます。

「散るように戦力外となってしまい」

今読むと、ずいぶん強い言葉です。

それだけ私は、自分が途中で仕事を離れることを悔しく感じていたのでしょう。

身体がつらいこと以上に、誰かへ迷惑を掛けていると思うことの方が苦しかったのかもしれません。


「いずれ快復した際には」

その直後に、今回このページのタイトルにした一文があります。

いずれ快復した際には、お詫びと恩返しをさせて頂きたいと考えております。

私は長い間、この手紙について、

「元気になって、恩返しをしに帰ってくると書いた」

という記憶を持っていました。

けれど、2026年になって原文を読み返すと、少し違っていました。

「帰ってくる」とは、一言も書いていません。

書いていたのは、

「快復した際には、恩返しをしたい」

ということでした。

記憶よりも、原文を優先する。

このサイトで昔の資料を読み返していく中で、私はそれを大切にしたいと思っています。

過去を、現在の自分に都合よく整えないためです。


24年間、身体を理解していたつもりだった

手紙には、確定診断を受けた直後の私の感覚も残っています。

24年前の怪我がきっかけで自身の身体を理解していたつもりでしたが、正式に診断を下されてこの病気の厄介さをあらためて知るに至り、腐るも輝くも、気持ち次第、「病は気から」を試されているような日々です。

この部分も、今読むと興味深く感じます。

事故から24年間。

私は自分の身体を観察し、天候との関係を考え、様々な治療を試し、自分なりの生活方法を作ってきました。

だから、自分の身体についてはかなり理解しているつもりでした。

ところが病名がついたことで、逆に、分かっていなかったことの大きさを知ることになりました。

原因らしきものが分かれば安心する。

私は、どこかでそう思っていたのかもしれません。

実際には、名前がついたことと、問題が解決することは別でした。


また、私は「収集分析」していた

そして、この手紙にも、自分らしい一文が残っていました。

未だ確立されていない方法での継続治療となり不安も大きいのですが、経験者談を収集分析して自分に合った治療でこの機会に全快を目指したいと考えています。

「経験者談を収集分析して」

1997年、22歳だった私は、むち打ちに関する情報を集め、同じ症状を持つ人たちと考えたいと書いていました。

それから22年。

病名が確定した2019年の私も、やはり同じことをしていました。

情報を集める。

比較する。

自分に当てはまる条件を探す。

そして試す。

身体のことでも、仕事でも、研究でも。

私自身はあまり意識していませんでしたが、ずっと同じ方法で、分からないものに向き合ってきたのかもしれません。


2019年の私は「全快」を前提にしていた

この手紙の中で、今の私に最も大きく見える言葉は、実は「恩返し」ではありません。

「全快」

です。

自分に合った治療でこの機会に全快を目指したいと考えています。

2019年の私は、本気でそう考えていました。

原因が分かった。

治療もある。

ならば今度こそ治して、元気だった身体を取り戻す。

そして、その先で人生を再開する。

確定診断直後に残した別の記録にも、

「完治すれば、どこまで上り詰められるだろうか」

という言葉を書いていました。

長い間、私の中には、

治る → 元へ戻る → そこから人生を再開する

という順番があったのだと思います。

まだこの時には、その順番そのものを変えることになるとは考えていませんでした。


「再び元気な姿を」

手紙は、こう終わります。

これまで大変お世話になりありがとうございました。

再び元気な姿をお見せできるように頑張りたいと思います。

感謝を込めて

2019年5月6日

この時点では、その後本当にGNESへ戻ることになるとは決まっていませんでした。

ただ、元気になりたい。

もう一度、元気な姿を見せたい。

そして、迷惑を掛けたと思っている人たちへ恩返しをしたい。

それが2019年5月の私でした。


けれど、治り切らないまま戻った

その後、思い描いたような「全快」はやって来ませんでした。

治療を受けても、事故前の身体へ戻ったわけではありません。

身体の問題に加えて、いくつもの出来事が重なり、心まで大きく崩した時期もありました。

朝になってもカーテンを開けられない。

そんなところまで落ちました。

そして2021年1月。

私はGNESへ戻りました。

ただし、2019年に想像していた形ではありません。

全快してから戻ったのではありません。

週三日勤務という条件を認めていただき、治り切らない身体のまま戻りました。

身体そのものを完全には変えられない。

ならば、仕事を成立させる条件の方を変える。

今振り返ると、ここに私の生き方の大きな転換点があったように思います。


手紙には書かなかった未来

2019年の手紙に、

「GNESへ帰ってきます」

とは書いてありません。

でも、私は戻りました。

そして、戻った場所で再び仕事をしました。

自分なりに、あの手紙に書いた「恩返し」もしました。

2024年夏。

私の中で、

「これで恩返しは終わった」

と思えるところまで来ました。

そこで初めて、次へ進もうと思いました。

そして、その意思を社長へ伝えた日に、一件のM&A案件が持ち込まれます。

会社の名前は、株式会社パントス。

その先は、また別の物語です。


治ってから恩返しをするつもりだった

2019年の私は、

治ってから、恩返しをする。

そう考えていました。

でも実際の人生は、少し違いました。

完全には治らなかった。

それでも戻った。

条件を変えながら仕事をした。

そして、恩返しもできた。

この違いは、今の私にとってとても大きなものです。

人生は、すべての条件が整ってから始めなくてもいい。

治らなければできないと思っていたことも、条件を組み替えれば成立することがある。

2019年の自分が残した手紙は、現在の私に、その変化を教えてくれます。

← 幹STORY「脳脊髄液減少症と生きる」へ戻る