――事故から2年、まだ病名を知らなかった頃

1997年6月4日。

事故から二年ほど経った22歳の私は、新潟で大学院生をしていました。

その頃の私は、自分の身体に起きていることを「むち打ち」だと考えていました。

インターネットで同じ症状について調べる中、一つの「むち打ち」に関する情報サイトを見つけ、その開設者へ長いメールを送りました。

その文章が、30年近い時間を経た2026年、手元の資料の中から出てきました。

自分で書いた文章です。

けれど、そこに何を書いたのか、細かなところまではもう覚えていませんでした。

読み始めると、22歳だった自分が、思っていた以上に今の自分へつながる言葉を残していました。

※以下、1997年当時の文章から引用しています。誤字・表記揺れ等を含め、原文の表現を基本的にそのまま掲載しています。なお、当時私が書いていた症状の原因や治療に関する理解は、22歳当時の私自身の認識であり、現在の医学的知見を示すものではありません。


「重大な後遺症はでずにすみました」

メールは、こんな書き出しでした。

1997.6.4 新潟より

初めまして,私は新潟に住む大学院生 武市真吾と申します.私もむち打ちで悩むひとりであり,インターネット上でむち打ちに関するページを探しておりました.

そして、1995年のスキー事故について説明した後、私はこう書いていました。

周りの方々の処置が早かったため,何とか重大な後遺症はでずにすみました.

2026年の私が、ここで一度、読む手を止めました。

「重大な後遺症はでずにすみました」

22歳の私は、本当にそう書いていたのです。

ところが同じ文章には、手術後しばらく首を動かせなかったこと、口がまともに開かなかったこと、寝返りを打つと天井が回るほどのめまいがあったこと、痛み止めなしでは眠れなかったことまで書いてあります。

さらに少し先には、現在でもひと月に一、二日は動けなくなる、と書いていました。

それでも当時の私は、自分を「重大な後遺症が残った人」とは認識していなかった。

事故前の身体へ戻ることを、まだ当然の未来として考えていたのだと思います。


症状は、事故から八か月後に始まった

この手紙には、記憶だけでは曖昧になっていた時間軸も残っていました。

実際に自覚症状としてむち打ちの症状に悩まされるようになったのは,怪我をしてから8ヶ月ぐらい経ってからでした.

1995年3月の事故から、およそ八か月。

秋まではスポーツへ復帰できるほど元気だった。

それが、背中の筋肉が常に突っ張るようになり、後ろを振り向くことが苦痛になり、やがて立ちくらみや軽いめまいへと変わっていく。

私が今の記憶から語っていた「1995年11月頃からおかしくなった」という時間軸と、ほぼ重なります。

大学院入試も迫っていました。

私は、

わらをもつかむ思いでカイロプラクテイックに通い始めました.お金は健康体の次と考え,4,000円の治療費で週2回のペースでしばらく通いました.

と書いています。

一回四千円。

学生だった私には、小さな金額ではありません。

それでも「お金は健康体の次」と書いている。

身体を元に戻すことが、当時の私にとってどれほど大きな問題だったのかが、その一言に残っています。


雨の日、学校を早退して書いていた

当時すでに、私は身体と天候の関係を強く意識していました。

その原因について、22歳の私は自分なりの仮説も書いています。

その説明が医学的に正しかったかどうかは、ここでは重要ではありません。

重要なのは、原因の分からない身体を前に、何とか変数を見つけようとしていたことです。

手紙の終盤には、こんな一文が残っていました。

現在も雨が降っており,学校を早退してきてこのメールを書いています.

雨の新潟。

体調が悪くなり、大学から一人暮らしの部屋へ戻った22歳の私が、パソコンの前に座ってこの文章を書いている。

2026年の今、その情景を想像します。

身体の中で何が起きているのかは分からない。

病名も分からない。

それでも、何か情報がないかと探していました。


22歳の私は、すでにこう書いていた

今回、この資料を読み返して最も驚いたのは、症状の記録ではありませんでした。

事故について書いた直後、私はこんなことを書いています。

大事故で人生観が変わったせいか,その後,人の怪我を治療していく立場になろうかと真剣に考えるようにもなりました.

現在は所属していた学部(生物学)の延長上にいますが,いずれは医者の立場ではないにしても,自分と同じような症状で悩んでいる人たちに何らかの形で貢献していきたいと考えています.

私はこの文章を書いたことを、ほとんど忘れていました。

2026年、52歳になった私は、自分の経験を講演や文章として誰かへ届けられないかと考えています。

同じ病気で苦しむ人や、その家族にも届けばいいと思っています。

けれど、その思いが52歳になって突然生まれたわけではありませんでした。

22歳の自分が、すでに同じ方向を向いていました。

その事実を、30年近く前の自分の文章から教えられました。


治療法ではなく、考える場所を探していた

同じ保存資料には、このメールに続く文章も残っています。

資料上の日付は「1992.6.6」となっています。内容の連続性から前の手紙に続く記録と思われますが、日付そのものは現時点では確認できていないため、ここでは訂正せず、そのまま資料として扱います。

そこには、治療についてだけではなく、患者自身が自分の症状を理解することについて書いていました。

ではどうすればよいか,それは患者自身が,まず自分の症状を理解することが大切だと思います.

そして、同じ症状を持つ人たちについて、

同じような症状で悩む人たちが力を合わせて,あーでもない,こーでもないと考えて助け合っていかなければならないのだと思います.

とも書いています。

22歳の私は、誰かが正解を与えてくれるのを待つだけではなく、当事者同士でも情報を集め、考え、より良い方法を探したいと思っていたようです。

最初のメールの最後も、

むち打ち治療の情報をどんどん集め,いいものを人々に伝えたいと思っています

と締めています。

研究者になる途中だった自分らしい、と今なら少し思います。

症状を観察する。

変数を探す。

情報を集める。

試す。

そして、役に立つものがあれば誰かへ渡したい。

やっていることは、今とそれほど変わっていません。


病名は、まだなかった

1997年の私は、自分の症状を「むち打ち」と呼んでいました。

後に私が確定診断を受けることになる「脳脊髄液減少症」という病名を、この手紙の中では一度も使っていません。

それは当然でした。

私が事故をした1995年当時、日本では現在のような意味で「脳脊髄液減少症」という名称が一般に認知されていた時代ではありませんでした。

自分の身体に名前がつくのは、この手紙からさらに22年後。

2019年です。

1997年の私は、まだ病名を知りません。

それでも、自分の身体を知ろうとしていました。

そして、自分と同じように困っている誰かの役に立ちたいと書いていました。


30年近く前の自分から届いた手紙

何度も引っ越しをしました。

パソコンも何台買い替えたか分かりません。

それでも、この文章は残っていました。

未来の自分へ残そうと思って保存したわけではありません。

けれど2026年になって読み返すと、そこには、現在の自分へつながる小さな種がいくつも残っています。

事故の二年後。

まだ病名も知らず、雨の日には学校を早退し、身体を元に戻す方法を探していた22歳の私。

その自分が、30年近く先にいる私へ向けたわけでもないのに、こんな言葉を残していました。

自分と同じような症状で悩んでいる人たちに何らかの形で貢献していきたい。

29年前の自分から受け取ったこの問いについては、今度は52歳の私が続きを書いていこうと思います。

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